ヴィジュアル・イメージ

先週の土日は学会と称して秘密の集まりに参加していた。
土曜の夕方5時に集合して、なんだかんだで私が一足先に仲間に別れを告げて帰ったたのは、翌朝日曜の5時だった。つまり延々12時間、ぶっ続け徹夜で議論を重ねていたわけだ。


一体誰と何をしていたのかは、今はまだ話せない。
ただし、いずれ公にする時が来るだろう。そしてその時はちょっと世間が度肝を抜かれると思う。いや、それどろこじゃないな。たぶん世界が仰天、ひっくり返るだろう。まあ、乞うご期待。


しかしそれにしてもみんな元気元気。お互いに仕事を抱え、むちゃくちゃ忙しいはずなのに、次から次へと要求に応え、テキパキと事を処理していく。まぁ、お互いにそういう過酷な訓練を積んで、頭がハイパーリンク状態になっているからできるんだけどね。
今の時代、一人が1つずつ仕事をこなしているのでは追いつかない。一人が同時に複数の仕事、プロジェクトをこなさなければならない時代だ。でもそれは決してムリなことではなく、ちょっとした訓練で誰でもできるようになるし、また同時進行にいろんな仕事をこなした方が、それぞれの仕事の質も向上する。アイディア、独創性はそんなふうにして生まれてくるものだ。


これは私の経験則からも確実にそうで、だから大いに仕事を抱え、あっちこちに首を突っ込んでみることだ。
「私にこれ以上、余計な仕事をふらないで!」なんて、露骨にイヤな顔をして理由をつけて逃げ回っている輩(S先生?)は、だからはっきり言って能力がない証拠だ。「いや、そんなことはない」と言う人がいたら、日本でも世界でも第一線で活躍しているプロフェッショナルを思い浮かべてみるといい。彼・彼女らはきっとあなたより忙しいし、にもかかわらず、きっとあなたより多くの仕事をこなし、そして結果も残している。それがプロというものだ。


今週はこんな私の経験則とぴったりの一冊を紹介したい。
川村明宏・大石達也若桜木虔『速読術でマルチ能力開発を!』日本実業出版社)である(Kさんに「また自己啓発本か」と飽きられてしまうね。いや、もうとっくに見限られたかな。元気にしてますか? と書いていたら、コメントをくれたようだ。おつきあい、ありがとう!)。この本は1991年の初版でちょっと古いのだが、内容は今でも十分に通用する。と言うより、91年の段階で現代の社会状況を見事に予測しているのがスゴイよ(古本のビジネス書は、こういう面白さもあるね)。


私は東京をウロついていた土日、ずっとこの本を持ち歩いてそれこそ電車を待っている5分とか昼飯を食べている10分とか、細切れ時間を利用して「速読」を実践していた。
「速読」なんて言うと、なんだか胡散臭い感じがするが、要は情報をいかに速く頭にインプットするか、ということだ。それだけのことだと思えば、私たちは電車に乗ったり、街を歩いて看板を眺めたりしながら、ふだん何気なく行っていることと変わりがない。だとしたら、当然「速読」にもコツがある、と理解できるだろう。街を歩いていて、あそこに何のお店があるとか、こっちから行くと近道だとか、あそこにはきれいなお姉さんがいるとか、私たちは瞬時に情報をキャッチしているのだ(逆にボッーとしていて、何も覚えていないという人もいるけどね)。


本書の著者たちは、そうしたモノの捉え方を「並列型学習」と呼んでいる。
これが終わったら次にこれをやって、それが終わったら今度はこれ、といった具合に1つ1つこなしていくのは「直列型」。これではいくら時間があっても、現代ではすぐに限界に達してしまう。そうじゃなくて一気に同時に情報を処理するのが「並列型」だ。世の中には実際にそういうことができるプロがいるらしい。ちなみに言うと、大学教員なんかは「直列型」が多いそうだ。アカデミックな世界なんて、たいていそんな程度で済んでしまうからだ。ごく一部の「並列型」思考の持ち主がノーベル賞級の発見や発明に達するだけで、大半はその模倣をして論文を生産しているに過ぎない。


本書で紹介されている作家の佐野洋さんは、2台のテレビで別々の番組を見ながら電話で話し、A社とB社の原稿を同時に執筆するらしい。これぞ「並列型」の思考法!
いきなり佐野さんの真似をするのはムリだろうが、本書の著者たちは、テレビを見ながら読書するぐらいの訓練をしてみてはどうかと提案する。これだけでもなかなか大変そうだが、案外、受験生の頃、ラジオを聞きながら深夜まで勉強していた人も多いのではないか。その方が効率が良かったりするのは、この「並列型学習」に関わっていると思う。そんな経験がない人も、洋画を観る時は、映像と字幕スーパーの両方を同時に頭にインプットし、理解しているはずだ。


そもそも映像などヴィジュアル資料だけでも、ものすごい情報が詰め込まれている(映像をパソコンに取り込んだ途端、急に動きが鈍くなったりするから、そのことはよくわかるよね)。でも私たちの脳は、ことヴィジュアルに関しては、絵なり、写真なり、映像なりを観ても瞬時に内容を把握し、情報を処理することができる(どんなアホでも絵を見せれば、だいたい意味は理解できるでしょ? 今の教科書だ!)。で、そういうのを日本人に対して行っていたのが、たぶんフランシスコ=ザビエルとかのイエズス会カトリック系のキリシタンたち。言葉が通じないからね。絵で示すわけだ(メディア研究の泰斗・マーシャル・マクルーハンがつくったカナダ・トロントの研究所は、この流れを汲むカトリックパラノイアの集団だね)。


話が横道にそれてしまったが、だから絵という情報に文字が加わったところで、どうってことはない。
自らをヴィジュアリストと言う手塚眞さん(漫画家・手塚治虫の息子さん!)も『ヴィジュアル時代の発想法』(集英社新書)で同じようなことを言っていた。どうやら世の中の天才たちは、同じような思考法を自然としているらしい(ちなみに手塚さんは、この新書一冊をたった一週間で書き上げたそうだ。ヴィジュアルな発想を使えば、そういうことも可能ということだ)。


これに関しては、本書の方に興味深いことが書いてあった。
情報のインプットとアウトプットは密接に関係しているというのだ。つまり「直列型」でインプットした情報は「直列型」でしかアウトプットできないが、「並列型」でインプットした情報は「並列型」にアウトプットできるということだ。だからヴィジュアリストである手塚さんは、一週間で一冊の本が書けてしまうのだろう。


すでに海外では、タイモン・スクリーチとかバーバラ・スタフォード女史が先鞭をつけているが、21世紀、新人文学はこの「ヴィジュアル」ということを抜きにしては語れなくなると思う。それは文学や美学だけのことではなく、歴史学や心理学、果ては情報科学脳科学の分野でも1つのキーコンセプトになっていくだろう(私はいつかどこかの仲間と一緒にアビ・ヴァールブルグがやろうとして果たせなかった〈ムネモシュネ・プロジェクト〉をやってみたいと考えている。コンピューターがあれば、それは決して夢物語ではないでしょう)。


というわけで、本書には「並列型学習」のススメと実際の訓練法が紹介されているのだが、おわかりいただけただろうか。えっ? 本書の説明が全然ないだって? そうか。
つまり「並列型学習」は、五感をフルに使って「ヴィジュアル・イメージ」を利用しろ、ということだ。たとえば、その訓練の1つが、どこにいても自分を見下ろすヘリコプターに乗った自分を意識しろというもの。そう、カーナビみたいな画面を常に頭の中に置いておくわけだ。で、上級編になると、それを平面だけでなく、立体的に想像する。地下鉄に乗る時とか、デパートのエレベーターで移動する時とか、建物を透明にして上から見下ろす(社会学者の大澤真幸さんも「自分はいつも分裂している」とどこかで言っていた)。
これ実際、私は東京をウロウロしている時、二日間やってみたのだが、なかなかいい。どんどん頭がクリアになっていく感じがする。ぜひ一度お試しあれ。


さて肝心の「速読」法だが、これも結局は同じ事。ようするに文字による記号の情報をどんどんイメージに置き換えて右脳で捉え、理解していく。たとえば小説に「女子高生」と出てきたら、セーラー服姿の長澤まさみを思い浮かべるとか、何でもいいからとにかくそうやってイメージ化して読んでいくと、理解も速くなり、記憶にも残りやすいと言うわけだ。「セーラー服姿の長澤まさみ」と書いただけで、今、パッとイメージできて「萌え〜」だった人はセンスがある(ね、忘れにくいでしょ?)。ま、気になる人はとにかくやってみることだ。


本書を読みながら、思い出したのが、工藤早弓『明治・大正 詩集の装幀』(京都書院)だ。これはタイトル通り、明治・大正期に出版された詩集の装幀を写真と詩の引用で紹介したちょっとユニークな本である。
で、先の本と合わせて考えてみれば、私たちはすごい大事なことを忘れていることに気づく。詩人たちは自らの詩を詩集という形で読者に伝えているのだ。つまり、そこには文字による情報だけでなく、改行による見た目やタイポグラフィー、活字インクの色から挿絵・写真・題字など、全部ひっくるめて大変な創意と工夫が込められているということだ。


そうしたことですぐに思い浮かぶのは、高橋新吉萩原恭次郎、斉藤秀雄などのダダイズムの詩集だろう。「DADAは一切を断言し否定する」。あらゆる既成概念を打破する前衛は、文字を躍らせ、奇抜なデザインを招き寄せる。しかし何も彼らだけではない。
本書を読んで「ああ、やっぱりすごいなぁ」と関心したのは、自ら装幀を手掛けることも多かった北原白秋の『思ひ出』(これはトランプがモチーフになっている)、自分の詩を〈ゴシック・ロマン〉と称していた新象徴派の詩人・日夏耿之介の神秘的・幻想的な詩集三部作(『転身の頌』・『黒衣聖母』・『黄眠帖』)、そしてやはり恩地孝四郎と親交を結んでいた萩原朔太郎(『青猫』のあの芥子色の美しさ!)の詩集群だ。


当時の詩人たちは装幀ということに相当にこだわって、北原白秋以外にも自ら装幀を手掛ける詩人も少なくなかった。もちろん詩人と画家、版画家などが共同して造本している場合もあるが、おそらくは現代以上に作者が造本に関与し、見た目ということに執着していたと思う。
つまり当時の詩人たちは、ちゃんと〈詩集〉というメディアがメッセージそのものでもあることを知悉していたのだ(今、そういうことをもっとも意識的に行っているのは、空中線書局http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kuchusen/の造本だろうね)。


自らを装本家と呼ぶ、私の好きな恩地孝四郎は「本は文明の旗だ。その旗は当然美しくあらねばならない」と言う。
詩という内容を生かすための入れもの、器物が〈詩集〉なのだ。そして詩を輝かせるためには、当然、入れものであるはずの〈詩集〉自体も美しくあらねばならない(最近は入れものだけが立派で中身が貧弱という逆のケースもよく見受けられるが……)。


西洋から輸入された思想や哲学といった複雑な精神を形にしたのが〈詩〉だとしたら、それを具体的にイメージ化し読者に伝えるのが〈詩集〉だったわけである。現に本書には、明らかに西洋の詩集を意識して造本された詩集も散見される。


本書には「速読」で読んでしまうには、もったいないぐらいの美しい詩集たちがたくさん載っているが、残念ながら、出来のいい詩集ほど手にした瞬間からイメージは即座に伝わってしまうのである。


明治・大正詩集の装幀 (京都書院アーツコレクション)

明治・大正詩集の装幀 (京都書院アーツコレクション)