芸術の秋

katakoi20082009-09-30



いよいよ夏休みが終わろうとしている。(我が勤務校は世間と大幅にずれて9月末日までが夏休みなのである。最近はすでに秋っぽいので「夏休み」という言い方も少しおかしいのだが……。)
この夏休み中にあれもやろう、これもやろうと計画だけは立てていたのだが、結局、ほとんど何も片付いていない。まぁ人生そんなもんであろう。(ただこの夏は出張であっちこち出掛けたので、随分と楽しい思い出だけは残った。)


夏休み最後の今日だから特別に……というわけでもないのだが、節目の時になんとなく告白しておきたくなったので、今宵はkatakoiの秘密をそっと打ち明けておく。


実はこの夏から私は北川健次先生のもとで「コラージュ」を習っている。(http://www.kenji-kitagawa.com/
「コラージュ」とは、もともとフランス語で「糊付け」を意味する言葉だが、今では現代絵画の技法の一つとして広く知られている。絵画における「コラージュ」はキュビスム時代のパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらが有名だが、主観的構成の意図を持たない「意想外の組み合わせ」としての「コラージュ」は、1919年にマックス・エルンストが発案したと言われている。そう、あの『百頭女』のエルンストだ。(覚えているかな?)
先日、北川先生の手解きを受け帰宅したら、偶然にも『美の巨人たち』という番組で「コラージュ」の創始者・エルンストが取りあげられていた。(繋がるときは恐ろしいほど繋がるもんだね。)


実際の「コラージュ」は、読み終わった雑誌等から写真を切り抜き、あるイメージのもとに何枚かの写真を組み合わせて作品を制作していく。冒頭の写真は「幾何学とエロティシズム」という課題で私が提出した作品の一つ。北川先生には、別の作品の方がいいと言われたのだが、私自身はこちらも気に入っている。「青の誘惑」というタイトルにしようかなと思っているのだが、どうだろうか。
私は小さい頃から美術が好きだったが、これまで専門的に勉強したことはない。北川先生のクラスには、個展を開いているような人もいて、私のような素人が混じっていてもいいんだろうかと不安になったりもするのだが、たまには自らを劣等生の立場に置いてみるのも一つの修行だろうと思って、今はその状況を楽しむことにしている。


「コラージュ」は一見すると簡単そうだが、実際にやってみると、これがなかなか難しい。(ただし一度はまると、その面白さに取り憑かれること請け合いだ。)私は最近は、雑誌を見ていても、街を歩いていても「あぁこの写真は使えるな」とか、「あの看板、面白いな」とか……目にするものことごとくをその文脈から切り離し、断片化して捉えなおすクセがついてしまった。これをアーティストの目と言えばいいんだろうか。
北川先生は「あんまり考え過ぎちゃダメだよ。とにかく手を動かしてみて」と言う。今、教育現場でこんなことは言わない。「行動する前によく考えよう」と注意を促すばかりだ。やっぱりポイエーシスって大事だなと思う。


夜、マックス・エルンストが放送されたその日は、先に書いたように北川先生の授業の日だったのだが、新宿の教室に向かう前に銀座・教文館に寄って藤城清治 光と影展」を堪能した。こぢんまりとした展覧会だったけれど、これまであまり見たことのない作品がいくつか展示されていて、とてもよかった。特に鏡が貼られた水槽を使った影絵は圧巻だった。
藤城清治の影絵は、間近で見ると、本当に一枚一枚が気の遠くなるような作業を重ねることで作られていることがわかる。アーティストは自分の命を削るように対象に向きあうのだろう。原爆ドームをモチーフにした藤城さんの作品には、祈りにも似た尊い時間が流れているように感じられた。
実際に戦争を経験し、今はもう80才を超えた藤城清治の平和への思い――。私は作品の前で清浄な気持ちになった。


藤城清治北川健次とでは、だいぶタイプが異なるけれど、でも作品に取り組む真摯な姿勢には共通するものがある。
私なんぞは「アート」の「ア」の字も知らない門外漢だが、これからも極力展覧会には出掛け、芸術には触れていたいと思う。