一座建立、今昔の日本に学ぶ


結婚5周年を祝し、先週の土曜日、東京は八重洲口の某高級レストランで、久しぶりに妻とランチをとった。昼間からワインを飲み、美味しい食事に舌鼓を打ったのだが、なんだか豪勢すぎて落ち着かなかったな。


まぁ自分が西洋式のテーブル・サービスに慣れていないせいもあるんだが、それでも自分が感じた居心地の悪さは、この日に偶然に買ったリクルートワークス編集部『おもてなしの源流』英治出版)を読んだら、氷解した。


で、膝を打ったのが、茶道の世界だ。茶道の「もてなし」の基本は、「一期一会」・「一座建立」というとこにあるらしい。つまり「生涯で一度の、心の通い合う場を主客で作り出す」。そのような主客一体の座をめざす心が、本来の「おもてなし」なのだそうだ。


その辺りの事情を本書に登場する編集工学研究所の松岡正剛は、日本の「おもてなし」は、「もてなし」「しつらい」「ふるまい」が三位一体となって初めて実現されると説く。「しつらい」とは季節や趣向に合わせて部屋や調度や花などの飾り付けで整えること、「ふるまい」とはTPOや趣向にふさわしい身のこなしをすること。
客の方はその主の意図や趣向を察して感謝を表し、〈主客融合〉の境地を堪能する。これこそが日本の「おもてなし」のなのだ。


私がレストランで感じた違和感は、あくまで主客を分離して徹底的に客をもてなそうとする堅苦しい西洋式のサービスに対してのものだったと解することができる。
う〜ん、今の世の中、自らの立場やロールに固執する場面がどう考えても多すぎるんだな。こっちが客としてもてなされてるんだけど、なんだか息苦しくなってしまう。慣れない客を演じ続けなければならないのもつらい。


21世紀、東京。古の日本がもっていたやわらかさはどんどん失われているんではないか。


私はもっと異質なものたちが出会い、主客が自由に入れ替わっていく、そしてそこから「卒意」のうちに〈創発〉が連続していく、そんな「触媒」としての〈場〉があってもいいと思うのだが。かつての日本人はそのような〈場〉を大切にしてきたんだと思う。


そうそう、賞味期限なんて客の方が匂いをかいで、ちょっと囓ってみて、自分で決めればいいと思うのだ。主客を分離して、各々の立場に責任を持たせようとするから、窮屈でしょうがなくなる。お互いもっと自由を謳歌しようぜ!


その点、子どもたちの方が上手に異質なものたちとの出会いを果たし、主客の相互乗り入れを行っている。


たとえば、ポケモン
レストランに向かう電車のなかでたまたま読んでいたのが、中沢新一『ポケットのなかの野生 ポケモンと子ども』新潮文庫)だ。
中沢は、現代の子どもたちに「液晶モニターの中に生きている仮想のモンスターを採集するのと、現実の水たまりで魚や虫を取ったりする遊びとのあいだを行ったり来たりしながら、二種類の空間でなんらかの「生命」の捕獲にいそしんでいる」姿を発見し、そこでは「技術と自然とが入れ子のようになってい」る、と言う。


時代や環境によって変わらない――たとえば子どもたちが〈得体の知れないモノ〉に夢中になって、そのとりこになっていく――このような衝動をレヴィ=ストロースは〈野生の思考〉と呼んだ。その対象は時にはカブトムシであり、時にはアゲハであり、時にはピカチュウであって、男の子だったら、たいてい一度は通過するはずのところのもので、そうしたモノたちをラカンは「対象a」と呼んだ。「対象a」とは、この場合、意識の「へり」であり、世界の「穴」であり、手つかずの「自然」のことだ。それは異質なものたちが出会う秘密の場所でもある。


「子どもの科学」は、自分のまわりの世界を知的な対象として分離しながら親しく接近していく(離散的結合する)ための強力な働きをする。そして「『ポケモン』は、子どもを魅了すると同時に呪縛もする「対象a」の領域を安全に渡っていくために、この科学の働きを上手に利用し」、「対象a」の昇華を可能にした。
おっかなびっくり、つかず離れずの距離をとりながら、子どもたちは未知の世界へと足を踏み入れ、自らのテリトリーを徐々に拡大し、やがて言葉を獲得して、大人へとステップアップしていく。


かつて深い森や洞穴などに残されていた畏怖の対象としての「対象a」は、今や仮想としてのモンスターたちによって、ゲーム機やコンピュータ・ネットワークなどの電脳空間を通じて担われている。


そうして子どもたちは、電信ケーブルを媒介にモンスター=「対象a」を「交換」しあう。
中沢の意見では、『ポケモン』の最大の特徴は、この「交換」にある。


「商品」として売買されるのではない「交換」=「贈与」には、「人格」がつきまとう。子どもたちは自らが苦労して捕獲し、手名付けたポケモンを惜しげもなく「交換」することによって、次々と新たな仲間たちと出会っていく。
そのときケーブルの中では見ず知らずの他人どうしで何か〈いいもの〉が行き交っている。そこには当然、主客の区別はない。主客の区別があっては、〈いいもの〉が行き交うはずはないからだ。親分と子分、ジャイアンのび太の間では、「交換」は成り立たない。


どうやら巡りめぐって『ポケモン』に「一期一会」・「一座建立」の「おもてなし」の源流を見ることができそうだ。
恐るべし、『ポケモン』。恐るべし、子どもたちだ。

おもてなしの源流 日本の伝統にサービスの本質を探る

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ポケットの中の野生―ポケモンと子ども (新潮文庫)

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