データベースをデンタルベースに


東浩紀については、ずっと食わず嫌いだった。(まぁ半分は、同世代であることのやっかみもあるのだが。)


それで何とか自分をなだめすかしつつ、動物化するポストモダン講談社現代新書)を読んでみる。……やっぱり、物足りない。何度もパラパラとしてみるのだが、なんて薄っぺらな内容かと思う。


「オタク系文化の本質とポストモダンの社会構造のあいだに深い関係がある」とする東は、そうした文化・社会の特徴として、まず「二次創作」の存在、「虚構重視」の態度を取りあげる。
が、ここら辺の議論は、本人も認めるように、リオタールが述べた「大きな物語の凋落」、あるいはボードリヤールが予測した「シミュラークル」の横溢という現象と完全に重なっていて、さして新しいところはない。


少し新味があるとすれば、オタクたちはもはや「大きな物語」(世界観)を追求する「欲望」がなく、むしろ断片としての「小さな物語」を独りよがりに消費することのみに関心があるのであって、物語とは無関係なところで「キャラ萌え」し、「萌え要素」をせっせとデータベース化して楽しんでいるとしたところだろうか。


東はこうした状況をコジェーヴにならい、「動物化」と名づけた。


彼は、ある意味、名づけの天才(?)だ。


いわく「大きな非物語」と呼びたい。
いわく「データベース消費」と呼びたい。
いわく「解離的」と呼びたい。
そして最終的には、「データベース的動物」と名づけたい。


これでは名づけ自体が堂々巡りだ。


いや待てよ、そうか。
もしかして『動物化するポストモダン』という本自体が「シミュラークル」であり、「大きな非物語」であり、「データベース消費」であり、「動物化するポストモダン」であるのかな? 
そうだとすれば、これはたいしたものかも知れぬが……いやいや、私にはどうもそうは見えない。
うーむ、彼とはどうつきあっていけばいいのかなぁ。


さて今週、もう一人、どうつきあっていけばいいのか悩んでしまった女がいる。川上未映子だ。


芥川賞受賞作品はまだ読んでいないが、どこでどう区切ったらよいのか、こねくり回した舌を噛みそうな独特の文体で、だいたい彼女は若いのかそうでないのか、アホなのかそうでないのか、美人なのかそうでないのか、はなはだ判断に困る対象だ。
ま、それが今のところ、彼女の魅力になっているのだが。


『わたくし率 イン歯―、または世界』講談社)は、わたしくを奥歯に規定する、やっぱり困った女がヒロインだ。


「わたしく率はぱんぱんで奥歯にとじこめられておる!!」


なるほど、歯か。それは気がつかなかったな。
言われてみれば、私にも歯には相当の思い出がある。
乳歯がぐらぐらになって抜けると、丈夫な永久歯がはえてくるようにと願って、上の歯は縁の下に打ち捨て、下の歯は屋根の上に放り投げたものだった。
なかなか抜けない歯は、母に糸で引き抜いてもらったりもした。


甘いものが好きで前歯のない少年であった私は、ある日、その母に「いいとこに連れてってあげる」と騙されて無理矢理歯科医の椅子に座らされ、とんでもなく「痛い」思いをさせられた。
(そのせいか、いまだに私にとって歯医者は「いいとこ」ではなく、「怖いとこ」になっている。)


はは〜ん、はとはは、か。歯と母。(繰り返し発音すると、ハートも混じってそうだな。)


我が息子も歯磨きを嫌がって、毎晩、母親とケンカしているが、これって意外に縁が深いかも。
そうすると、ヒロインである「わたくし」が、まだ生まれてもない我が子を想像し、手紙で自分のことを「お母さん」と呼んでいるのも意味深長だ。はぁー、これはなかなか「奥」が深いぞ!


川上の面白さは、このグイグイと読者を引っ張っていく牽引力にありそうだ。


彼女は朝日新聞(1月23日)のインタヴュー記事で、人生には「いろんな発見があるものだ」、「発見というよりはただ単に、あっ、と思って、再確認する、というような具合であって、これまで当たり前のように見ていたもの、当然すぎてそれまでそれについて考えもしなかったようなことが日常には満ち満ちてある」と書いている。


私はこういう発想を〈バロック的な知〉と呼んでいるのだが、果たして彼女もそれを意識しているのどうか。


いずれにしても「データベース」に沈潜して、一人悦に入っていてもはじまらない。
強引でも何でもねじ曲げてつなげていく面白さ、そしてつながっていく楽しさ。
もっともっと大胆に折り返して、いろんなヒトやモノやコトにつながっていかなきゃね。
私も食わず嫌いを反省しよう。


今回は、東浩紀に随分と辛口になってしまったが、『動物化するポストモダン』は教育論として味わえば、結構イケるかも。

わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界