普通・ノーマル・スタンダード

お遊戯会の看板



ツンと澄ましクール・ビューティーよりソウ・キュートな微笑みの天使。“ボンッ・キュッ・ボンッ”のグラマーよりちょっぴり日焼けしたスマート系。クラスみんなが憧れる学級委員長より隣の席の女の子と言ったところが、私の好みだろうか。


ようは高嶺の花より野末の草花、これまで見向きもしなかった道端の名もなき花に目をとめて、その美しさを一人鑑賞していたいタイプだ。
ごくごく日常の「普通」が一番ということだ。(でもないか? 若者たちの「萌え〜」の一部は少しだけわかったりもする。)


でも「普通」って何だろう? 考えてみると、「普通」って意外に難しい。「普通」の女の子って、どんな子かなぁ。今どきの「普通」って、オジサンが想像するよりずっと進んでいるんだろうか?


昨日は息子の幼稚園のお遊戯会だった。幸い仕事もなく息子のハレの舞台を見に行った。我が息子は山寺の小僧役で、くりくり坊主のカツラをかぶり「なんまいだ〜、なんまいだ〜」。途中、隣の男の子に「前、前。前に移動して!」と急かされる場面もあったが、なんとか役をこなしていたようだ。


午前中の前半組で18プログラム。総じて女の子の方が、演技がうまい。役になりきっている。


かつてフランスの社会学ロジェ・カイヨワは、「遊び」を4つに分類した。アゴーン(競争)」「アレア(偶然)」「ミミクリー(模倣)」「イリンクス(眩暈)」
幼稚園のお遊戯会などは「ごっこ遊び」の延長と考えれば、「ミミクリー」に入るだろう。


私にも小さい頃、妹のママゴトに嫌々つきあわされた経験があるのだが、どうも女の子はこの「ミミクリー」が得意らしい。昨日でも、お姫様、魔法使い、意地悪バァさん……と、何でもそつなくこなしてしまうのは女の子だ。
男の子はどうしても自が出てしまい、演技にはならない。「こんなんやってられっかよー」と場を乱すKYは、たいていいくつになっても男の方だ(反省)。


さてマンガ界では、もっときわどいことになっているようだ。(こういうのに晩生の私は、全然知らなかった。)美少女、ロリコン、妹系、凌辱、調教、SM……と、乙女たちはあられもない姿であの手この手の役回りを演じている(いや、させられている?)らしい。
そうしたことを時系列・ジャンル別に網羅的にわかりやすく教えてくれたのが、永山薫エロマンガ・スタディーズ 「快楽装置」としての漫画入門』イースト・プレス)だ。表紙のデザインもさることながら、本文に即したマンガの挿入カットがたまらなく「萌え〜」である。なかなか手の込んだいいつくりの本だ。


マンガの世界では、それこそ女の子たちはコスプレであろうが、レイプであろうが、はては四肢欠損にいたるまで、男の欲望の対象として何でもこなしてしまう。


息子のお遊戯会では最後にフィナーレを迎え、担任の先生の苦労話と涙に私などは思わず「ううっ」ともらい泣きであったのだが、それさえもあとで冷静になって考えてみれば、担任の先生は女であったわけで、「先生」という役を、フィナーレという「場面」を無意識的に演じていたと解釈できなくもない(意地が悪くてごめんなさい)。


いったい何が演技で何が演技でないのか? 私たちは演技を楽しんでいるのか、それとも演技をさせられているのか? 性的な欲望は果たして自分のものか? それが本物だとしたらその性癖はいったいどこからやっ来たのか? 永山の本を読んでいてそんなことを感じた。


となると、改めて「普通」って、何だろうか。「ノーマル」って、何だろうか。


そうした問題をデザインという側面から考察したのが、建築家・内田繁『普通のデザイン 日常に宿る美のかたち』工作舎)だ。


内田は、21世紀の文化の課題は「普通・ノーマル・スタンダード」を見つけていくことにこそあるとして、刺激的で華美で奇抜な「デザイン」のイメージに対して、徹底的に「普通」とは何かを問う。


彼が言うには、人が「普通」と感じることには、時間や空間、記憶や自然が関わっている。
建築の世界では、1851年のロンドン博以来、建築の「モデュール」化が進み、コスト・スケジュールが管理しやすくなった一方で、どこでも、誰でも、壊れないで使うことのできる「ユニバーサル・デザイン」が横溢し、モノと人間との関係が希薄になっていった。


そこにもう一度「身体性」を取りもどすこと。これがどうも「普通」ということの感覚には必要のようだ。
ガラスのコップは落とすと割れる。だから人は丁寧に扱おうとする。それがモノと人が近づき、人がモノに愛着を感じる瞬間だ。


暮らしのための道具に質素で素朴な美を見出すこと。内田は「普通のデザイン」は、日常性のなかにあると言う。


お遊戯会では、女の子チームが踊った「ガラスの妖精」が印象的だった。キラキラと燦めくガラスの妖精たちは、一見きらびやかで華やかなんだけど、それをつかまえようとすると、正体を隠してしまう。「♪からっぽぽぽ〜」なのだ。


大切なのはハレの舞台をハレのまま終わらせないことだ。ハレとケをもっと自由に行き来することだ。普段のお友達に「ガラスの妖精」を見ることだ。担任の先生の涙をあの場面だけにしまわないことだ。自分の「身体」とともに、いつでも「記憶」を取り出せるようにしておくことだ。


今回はあえて取りあげなかっが、その秘策の一手はおそらく〈フラジャイル〉な感覚を身につけることにある。永山と内田の両書の共通点は、その〈フラジャイル〉にある。


我が家では今日、この地方ではめずらしく降った雪の庭に子供と一緒に「鬼は外、福は内」の豆まきをした。
鬼を身近に感じられれば、「普通」の有り難みも感じられるはずだ。

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

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普通のデザイン―日常に宿る美のかたち

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