KからKへのラブレター

katakoi20082008-02-10



私の研究室には、クラスの学生が持ってきたヱヴァンゲリヲンのポスターがデカデカと貼られている。そのせいか最近は誰もが怪しんで、人があまり寄りつかない。
(「綾波レイはなぜかくも美少女なのか?」という問いだけで、カルージュに連なる相当に面白い、深い研究テーマになると思うけどなぁ。)


にもかかわらず、先日は卒業生のKさんが北国からお土産を持ってやって来た。(私は彼女が関東地方に大雪をもたらしたと思っている。)
Kさんは珍しく、在学時代から私の研究室に寄生していた奇特な人物だ。(今ではM市で私の大学時代の後輩のもと、本屋で働いている。まことに縁とは異なものだ。)
彼女が卒業したあとからも私の部屋には、澁澤の書斎のごとく怪しげな人形やら写真やら図録たちが集まってきて、ちょっとしたヴンダーカンマーと化しつつある。


人形には以前から興味があった。
藤田博史『人形愛の精神分析青土社)は、小著ながら実に面白く、各方面に応用のきく見事な本だ。頭の中であっちこっちに話が連結していき、本当に愉快。(自分もゆくゆくはこんな小さな本を出したいものだ。本はこぢんまりとしている方がカッコイイ。)
本書は、人形と人形作家の関係を精神分析的に考察したもので、もともとは2001年5月〜2002年12月まで全20回におよぶ「人◇形◇愛の精神分析」という連続セミネールが下敷きになっているようだ。


エスバレー・ポワンソン・プティタ($◇a)
Sは主体、aはフランス語のamour(愛)、ポワンソン(◇)は絶対的な隔たりを表す。
著者は、斜線を引かれてこの世から抹消された主体が愛を求めている構図が精神分析の基本的な考え方だと説明する。


満たされない愛。恋はいつでも片思い。katakoiなんですね。


そう言えば、私にも学生時代、好きな子がいたなぁ。Nさん。今頃なにしてるかなぁ。
彼女とは同じサークルで、誕生日も同じだった(彼女の方が3つくらい下)。文学部を卒業したあと、夢をあきらめきれず、医学部に入りなおした才媛で、小柄だけどとっても明るく元気な女性だった。気どったところがなく「昨日も飲み過ぎて、立ちながらゲロ吐いちゃいましたよ。ハハハッ!」なんて言う子だった。もう結婚して、ママだったりするのかな。医者としても活躍しているんでしょうね。


著者の藤田氏は、実際に精神分析医であり、なおかつ形成外科医でもあるらしい。
彼はラカンに基づきながら、人(形)の各部位(たとえば眼や口、乳房、尻、性器など)の意味とそれにこだわる人形作家の精神の関係とを素人にもわかりやすく分析していく。(鼻や口の象徴的な意味を知ったら、もうまともに他人とは対面できません!)


人形と人形作家。そこには幼いころ何らかの事情で想像的な去勢を否認せざるを得なかった、ゆえにその後は性倒錯者として生きねばならなかった人たちに似たアーティストの、言葉にはならない人形との会話が成立している。
エスバレー・ポワンソン・プティタ。それは自らの似姿に託した幼き日々の自己との対話であるかも知れない。


人形作家の山本じんが述べているように、人形は生きているのでも死んでいるのでもなく、関節のような、何かと何かの狭間を繋ぐものなのだろう。
自分でもなく他人でもない。〈鏡像〉とでも言えばいいのだろうか。いやそこまで自覚できていれば、ラカン言うところの「鏡像段階」に達しているるわけで、当事者は永遠の庇護者である母と訣別し、言葉を獲得して社会に船出することができるはずだ。
人形にはそこに至る直前のたゆたいのようなものを感じる。


さてこれと似た関係、いやこれをもっとも悲劇的な形で示す間柄が〈師弟〉というものではないか。
四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社)は、師・由良君美と自らの関係を振り返りながら、ついに悲劇的な結末をむかえた過去に訣別し、和解を果たそうとした一書だ。


弟子というものは当然、いつまでも師にとって従順な人形であるはずはなく、師の言葉を受け継ぎながらも、いつかは自らの言葉で語り出し、旅立っていく命ある存在だ。
その旅立ちは蜜月時代の師弟の関係に否応なく亀裂を生じさせる。(あまり思い出したくないが、学生時代の私にも自分が弟子という立場でそんな経験がたびたびあった。)


由良は弟子・四方田の書物に「すべてデタラメ」という一言の絵葉書を送って寄こし、ついには酒の勢いを借りて四方田の腹を殴打したと言う。由良には弟子に見捨てられたという思いが強かったのだろう。
四方田は本書の最後でダンテの『神曲』「煉獄編」を援用し、第27歌の師・ウェルギリウスの言葉「これからお前は自分の悦びを導き手とするのだ」を引用し、過失がなくとも師は置き去りにされるもので、弟子は師を置き去りにして先へと進んでいかなければならないと説く。


しかし一方で、四方田はもはや師となった自らを振り返り、自問する。


はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在を賭けた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。


私のキャリアは四方田には及ぶべくもないが、今後は四方田のこの言葉を肝に銘じよう。
私はまたまだ未熟者のようです。ね、Kさん。

人形愛の精神分析

人形愛の精神分析

先生とわたし

先生とわたし