ヴィーナス、現る!

先日、近所の大型スーパーで買い物をしていたら、ある女性に一目惚れをしてしまった。


細い肩に小さな胸、クネクネッとした柔らかそうな緑の髪を背中あたりまで伸ばしていて、抱きしめると折れそうなぐらい華奢な腰つき。そうしてまっすぐにこちらを見つめている。下半身には小さなビキニと太腿までのストッキングしか身につけていない。う〜ん、悩ましい。


名前をMint(ミント)と言う。佳嶋『DELTA OF VENUS』河出書房新社発売)の表紙を飾る女性だ。


正確に言うと、私が彼女に出会ったのは、これが初めてではない。
前にこのブログでも書いたスパンアート・ギャラリーで、佳嶋の個展案内チラシの中にMint(ミント)のスレンダーボディーを見つけ、その頃から私はすっかり魅了されていたのだ。
そんな彼女が田舎のスーパーの、それも小さな書店の漫画コーナーにひっそりと佇んでいるとは! 私は妻に「また本、買うの?」とちょっぴりイヤな顔をされつつも、小遣いを前借りして(あ〜情けない)彼女を求めたのだった。


佳嶋の描く人物は、どれも細身で、手足がひょろ長い。ビアズリーに似た繊細なタッチで、幻想的な雰囲気を醸し出している。本書の巻末には、小説家・皆川博子のエッセイ「私は、掴まれた」が載っているが、タイトルからわかる通り、彼女もやはり、一瞬にして佳嶋のイラストの虜となったらしい。皆川は、そのエッセイで佳嶋をロセッティやミレーなどのラファエル前派、あるいはモローやクノップなどの象徴派の画家になぞらえている。どうやら皆川は佳嶋のイラストに世紀末芸術の血脈を感じているようだ。


それにしても佳嶋って、いったい誰なのか? だいたいこれは名字なの? 名前なの? 男なの? それとも女? (ネットで調べてみると、どうやら女性らしいのだが。http://www.ne.jp/asahi/kashima/echo/
でもこのちょっと謎めいた境界侵犯的なあり方こそ、おそらく彼女のストラテジーなのだ。
本書のページを繰っていくと、人間なのか人形なのか、それとも獣なのか、はたまた妖精なのか、どうにも判然としないイラストが次々と姿を現す。そしてそれらは次第に怪しげな様相を帯び、天使なのか悪魔なのか、生きているのか死んでいるのかさえ曖昧になっていく。


本書の後半には、「Don't you like men? I asked her.」「I'm a vergin. I don't like men.」といった言葉が踊り出す。これらの言葉に明らかなように、本書の最大のモチーフは「性差混乱劇(ジェンダー・パニック)」にあると言える。先に登場する半人半獣のキマイラは、いわばその前哨戦だ。実際に後半では、むりやりに乳房と男性器を一つの身体に縫合した人物(?)が散見される。


こうした「性差混乱劇(ジェンダー・パニック)」で思い出されるのが、世紀の傑作「新世紀エヴァンゲリオン」だ。
エヴァンゲリオン」については、すでに数多くの研究書が出ているはずだが、なかでもオススメしたいのが、小谷真理『聖母エヴァンゲリオン(マガジンハウス)である。(私はブックオフで数百円で買った。)


小谷は今や日本で第一線のSF評論家だ。彼女については、何と言ってもダナ・ハラウェイの〈サイボーグ・フェミニズム〉の概念を日本に輸入・紹介した功績が大きい。
実は私は一度だけお会いしたことがあるのだが、これがまさしくMint(ミント)なのだ。気になる方は、ぜひどこかで著者近影をご覧いただきたい。ただし本書の「著者紹介」は赤木リツコ(?)のコスプレをしていて、残念ながら素顔を拝めない。でもその白衣姿はまるっきりの嘘でもなく、彼女はもともと北里大学の薬学部を出たサイエンティストなのである。一時は湘南の赤十字血液センターで勤務していたらしい。(ちなみに彼女の夫はそれこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの、あの巽孝之氏。凄い夫婦だねぇ。いったい家庭生活はどんなんだろうか。)


ところでハイテクバリバリのSF・サイボーグの世界にフェミニズムの視点を持ち込むなんて、ちょっと想像がつかないかも知れないが、でもロボットって、だいたいなんで美少女が多いの? 綾波レイもそうだよねぇ。
ここら辺はすでにミッシェル・カルージュが問題にしているのだが、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』以来、たいていロボットやアンドロイドの類は、独身男・マッドサイエンティストの欲望から生み出されているのだ。だから必然、美女が多くなる。
最近ではそうしたことに自覚的になってきて、評論家たちは女版「アンドロイド」を「ガイノイド」と言う。そもそも「アンドロイド」という言葉には、「男」というニュアンスが含まれているためだ。(こうした言葉が考え出されたのも〈サイボーグ・フェミ〉の成果だろうね。)


さて本書は、その小谷が原作者・庵野秀明に直接会ってインタヴューもしながら、書いているらしい。だから面白くないはずがない。これはもうエヴァファン、垂涎の書だ。


まず第1章「初」では、性差(ジェンダー)という観点から家族の問題を扱う。フェミニズムにとっては、基本中の基本の議論である。
碇ゲンドウが全権力を掌握するネルフは、彼自身が絶対的な父を演じていることに明示されているように、家父長制的な世界を体現した組織である。そのような世界観は、言うまでもなく、善/悪、光/闇といった二項対立的な西欧キリスト教世界と不可分の関係にある。そこではどちらも前者が後者を力でねじ伏せる、という仕組みによって世界が成り立っているからだ。


続く第2章「弐」では、碇シンジ赤木リツコ葛城ミサトなど一人一人の登場人物に即しながら、その性役割が丁寧に分析される。たとえば、碇シンジ潜在的な戦闘能力を秘めながらも内心では戦いたくない少年であり、葛城ミサトはその彼と生活をともにしながら、時にはやさしく、時には厳しく見守る姉=養母的役割を担わされている。彼女はネルフの戦闘指揮官として、エヴァに乗るシンジを巧に操りながら、何とか彼を一人前の男に育てていく存在なのだ。
そういった意味で、小谷は物語前半第6話の「ヤシマ作戦」は、日本中の電気(ダイナモ)を集め、一点から放出する男根的な物語として機能し、シンジ少年の男としての初陣を飾るにふさわしいターニング・ポイントになっていると言う。


中盤の第3章「参」では、ガイノイドである綾波レイにまるまる一章が割かれる。ここにおいて〈サイボーグ・フェミニズム〉の真骨頂、炸裂といったところだろう。
先にも触れたように、西洋的合理主義においては、他者なる敵=使徒を抑圧し、自然としての女性を征服することによって、男としての自己を確立し、文明を築いていくのが理想的な道行きである。かつてフランスの精神分析批評家ジュリア・クリステヴァは、そうした父なる文明に迎え入れられるために棄却されなければならない、女性的な穢れたものを「おぞましきもの(アブジェクション)」と命名した。またアリス・ジャーディンは、それを一歩進め、そうした「女性的なもの」がいかに文明内部と重ね合わされているか示すため、あえてそれらを〈ガイネーシス〉と名付けた。こうして小谷はハイテク技術によって噴出する「女性的なもの」を〈テクノガイネーシス〉と呼ぶ。


新世紀エヴァンゲリオン」の物語は、まさにこの〈テクノガイネーシス〉をめぐる〈サイボーグ・フェミニズム〉の方法論とシンクロする。碇シンジをはじめ、彼・彼女らはエヴァというハイテク最新兵器に乗り込んで激しく使徒と戦えば戦うほど、隠蔽しておきたいはずの〈ガイネーシス〉が噴出してきてしまうことに気づきはじめる。それは他者を抑圧し、征服するということが、何を隠そう、他者を女性化するということに他ならないためだ。
だからシンジ少年は、戦えば戦うほど、自らのうちに女性性を見出し、自他の区別が曖昧になっていくのである。いや、そもそもエヴァこそはイヴであり、野獣と化すおぞましき女性性を内に秘めているのだ。これが〈エヴァ覚醒〉の本当の意味だ。(とすると、いったい敵はどこにいるんだ?)


小谷はその辺りの物語の変化を第拾参話からの第2部に指摘し、ここから物語は完全に勧善懲悪型を逸脱し、使徒は内なる他者と化していくと言う。特に第弐拾四話では、ついに使徒が人間の少年・渚カヲルの姿をして現れ、碇シンジホモソーシャルな関係を築こうとする。カヲルは、ちょうど佳嶋が描くような両性的な雰囲気を醸し、味方でもあり、敵でもあるような微妙な振る舞いを続ける。
こうして「新世紀エヴァンゲリオン」は、第2部に至って、精神分析的な物語の様相を呈していく。


続く後半「四」と「伍」では、さらに宗教的な観点から「新世紀エヴァンゲリオン」の分析が試みられる。
小谷によれば、原作者・庵野秀明には、「死海文書」やグノーシス主義をちらつかせながら、キリスト教システムの根底に隠蔽された西欧的二項対立世界を暴き立てようとする異教的な企図があったようだ。(う〜む、庵野秀明って、なんて恐ろしく凄い奴なんだ。)
またそこからは世界における日本の女性的な立場を重ねて議論していく道も切り開かれてくるだろう。が、小谷はそこはあまり深く踏み込んではいない。(ま、少しぐらいは課題を残しておいてもらわないとね。)


最後に本書は脚注がすばらしく充実していることを付言しておきたい。これだけでもヘタな文学理論の教科書より読む価値がある。文学理論の概念を実際の批評にどう活かすか、まさに実践編といった感じだ。
私が最近、本書を読み返したのも(もちろん熱烈なエヴァのファンということもあるのだが)、明日の(もう今日になってしまったが)5年生の授業のためにちょっと精神分析の用語を復習したかったからだ。こんなふうに書くと、いったいどんな授業をしているのかと怪しまれるかも知れないが、エヴァはたまたま話のつながりで、ほんのオマケである。少しばかり言及してみようと思っているだけだ。講義のメインはちゃんと別のところにあるので、かえって期待した人は、あしからず。


でも話が横道にそれるって、とっても大事なことだと思う。(私の授業は、いつも横道にそれまくって、ほとんどまっすぐ進まないのだが。)
子どもの頃、「道草せずにまっすぐ家に帰ってきなさいよ」と母によく釘を刺されたものだ。しかし子どもの時って、道草が楽しいのだ。虫を捕まえたり、木の実をとったり、近道を探して探検したり。いや、大人だってそうだ。ちょっと今晩ぐらいは、あそこの横町に寄って行こうかなぁ……。そう言えば、あの娘、最近見ないけど、元気かいなぁ……なんて。
道草のない人生なんてつまらないものねぇ。学生たちも大いに道草を楽しんでくれるといいんだが。


デルタ・オブ・ヴィーナス―佳嶋作品集 (E´.T.insolite)

デルタ・オブ・ヴィーナス―佳嶋作品集 (E´.T.insolite)

聖母エヴァンゲリオン―A new millennialist perspective on the daughters of Eve

聖母エヴァンゲリオン―A new millennialist perspective on the daughters of Eve