ハイ、ち〜ず!

今週も前回に引き続いて「ヴィジュアル系で行こう!」と思い、荒木経惟『天才アラーキーの写真ノ方法』集英社新書)を読んで準備を進めていたのだが、勤務校でゴタゴタが発生し、かなりのドタバタ喜劇を演じているうちに、随分と更新が遅れてしまった。


昨今トップはどこでも頻繁に危機管理を云々するけれど、その自らが喜劇を演じているんだから、これはもう笑うに笑えない。あきれかえるよりほかにない。
そりゃ、緊急事態だから大変だろうけどさぁ、あまりにもお粗末。「能がないんじゃないの?!」と身内ですら言いたくもなる(なに、ネットで調べたら、もうちょっとマシに対応してる学校もあるじゃないの! あのねぇ、こういうのタイマンっていうだよね)。


でもこれはなにも本校に限ったことではなく(うちの場合は相当ひどい方だと思うが)、今、日本の組織・社会はほとんど似たり寄ったりの状況ではないかと思う。言わば学校はその縮図になっているに過ぎない(このことについては、ある本を参考に「民主主義」と絡めてじっくり考えてみたいと思っているが、それはまた別の機会にしよう)。


こんな時は気分転換にパッーとどこか景色のいいところへ出かけたくなる。でも、さぁどこへ行く? 海? それとも山? ドライブして温泉にでも行く?
実は当たり前と言えば当たり前だが、人によって「あ〜いい景色だなぁ」と感じる感覚は微妙に(いや、かなり)違う。
作家の坂口安吾は、自分が好きな温泉を友人に紹介したら、「何もなくて退屈した」とあまりに真剣に文句を言われるので、そこではじめて自分の好む景色が万人に共通したものではなく、他人には理解されないんだということに気がついたと言う。


「なに言っているんだ。何もないからいいんじゃないか!」と安吾は心の中で叫んだに違いない。
私は断然、安吾派だ。人の寄りつかない殺風景な景色を好む。
もう5年ぐらい前になるが、そんなわけで結婚式もわざわざ人里離れた山奥の小さな教会を探して挙げたのだった(が、これには親戚一同、非難囂々。)こういうの、「ピクチャレスク」っていう言葉を1つ知っていると、違うんだけどなぁ。


荒木経惟は写真家だから、さすがにこの手の感覚はよくわかっているようだ。
アラーキーと言うと、エロティックな女の裸の写真ばかりを思い浮かべる人がいるかも知れないが、彼の風景写真はとってもいい。子どものいない寂しげな公園とか、行き止まりの路地裏とか、絶品だ(やっぱり、自分で「天才」って言うだけはある)。
『天才アラーキーの写真ノ方法』には、そんな彼の写真がたくさん載っていて実に楽しいんだが、彼の写真哲学については、もう少しあとで述べることにしよう。


今回はその前に中村良夫『風景学入門』中公新書)を繙きたい。
この本、奥付で確認すると、初版は1982年で、2006年の時点で18版を数える超ロングセラーだ。しかし恥ずかしながら、私は全然知らなかった。たまたま新宿のジュンク堂でブラブラしているとき見つけ、「へぇ〜、こんな学問があるんだ」と思って買ったのだった。世界一受けたい授業だ。


筆者の中村良夫は、東大工学部土木工学科を卒業後、東大、東工大、京大等で教鞭を執り、現在は東工大の名誉教授。これも後で知ったことだが、筆者の文章は(決して読みやすくはないんだが、どういうわけか)最近よく大学入試に採用されているらしい。そう言う意味でも、高校生諸君は本書を読んで損はないと思う。


本書はタイトルにある通り、筆者が提唱する「風景学」という学問の入門書だが、中身はかなりハードである。
つい先ほども触れたように、筆者は景観工学の専門家なのだが、本書にはそうした工学的な話ばかりでなく、古今東西の文学作品(特に中国・漢詩の知識が半端じゃない)や歴史学、美学、心理学、それに哲学や民俗学、宗教学。さらには認知科学(前にこのブログで紹介したギブソンね)に至るまで、ありとあらゆる学問の成果が総動員されていて、そのうえで筆者は「風景学」なる学問を構築しようとしている。
いや〜これだね、この心意気だね。新しい学問を切り開こうとするトップなら、これぐらいの矜恃がないと(ホント参りました)。それにしても今日、ワーズワース芭蕉千利休荘子保田與重郎とを一緒くたに語れる工学屋さんがどれくらいいますかねぇ(文系の学者でも怪しいね)。


さて、そんなわけで本書の内容はたいへん多岐にわたるのだが、まぁ要点をかなり強引につまんでしまうと、要するに「地」と「図」は、どちらも単独では意味をなさない、ということ。筆者はこれをゲシュタルト心理学から述べて、「地」あって「図」あり、「図」あって「地」あると説明する。
大乗仏教の言葉を借りれば、「地」も「図」も「無自性空」であり、私たちはそうした世界を分節化して認識しているということになる。「分節化」と言うのは、ある時はある物を「図」と見て、またある時は逆に「地」と見る、そういう境目のことだと思えばわかりやすいだろう。


とすると、重要なのは「縁(関係)」ということの方になってくる(わかるよね?)。
筆者は別の箇所で、詩人であり、工芸デザイナーでもあったウィリアム・モリス芥川龍之介が東大の卒論の対象にした詩人だね)の仕事は、畢竟その「物と人間が正しい倫理関係をとり結ぶようにすることであった」と述べているんだけれど、これはスゴイ。 筆者にかかると、モリスと仏教がつながってしまうんだ。こんな観点から今の東京を振り返ってみると、常に「図」であろうとする電柱や川の護岸があまりに多いことに気づく。
さらに筆者は何気なく植えられている道の並木が安全走行にどれほど重要かを説く。何の役に立つのか、一見、不明でありながら、それが空間のなかに身を置いている人間の精神生活にいかに深くかかわっているか、そのかかわり方の構造と人間的意味を考え、生活空間の創造と保全に役立てようとするのが「風景学」なのである。


そう考えると、何でもかんでもムダをカットする現代の方式が、どれだけ私たちの精神生活を貧困にし、住みにくいどころか、生きにくいまでの社会を創り出してしまっているかが見えてくる(そうか、こういったところが筆者の文章が今の入試で採られている秘密だろうな)。
筆者は後半「心境冥界し道徳玄存す」という空海の言葉を引用しながら、環境と心は互いに相俟って生起し、両者が一如となった時、初めて「自分」を悟ることができるとし、ここに「環境人 Environmental man」なる概念を紹介・導入する。要はやはり関係という「縁」を重視しなければ、始まらないということだ(この辺り、例のエヴァンゲリオンも思い出すね)。


思いのほか長くなってしまい、『天才アラーキーの写真ノ方法』について語る余裕がなくなってしまったなぁ。
なので一言だけ、アラーキーの言葉を引用しておくことにしよう。「写真っつうのは関係の問題だってこと」。
や、お見事! 写真は「ハイ、ち〜ず!」だしね(わかるかな? このシャレ。漢字にするんだよ。)
アラーキーは銀座と新宿を撮るのに、いちいち服装を変えると言う。さすがはプロ! 写真家はそこの街に入り込んじゃわないといけない。そのための着替えなんだね。


アラーキーの本は、全編語り下ろしになっていて、本当に会話をしているように、リズムよく読めるんだが、しかし冗談まじりの言葉の端々に時々、「え?!」って度肝を抜かれるようなセリフが挿入される。そのちりばめ具合が、また絶妙だ。
彼って、あぁ見えて相当に照れ屋でシャイなんだと思う。だから、ついつい逆の言動に出ちゃうんだろうね(このあいだ観た映画「タカダワタル的ゼロ」に出ていた泉谷しげるもそんなタイプだろう。高田渡が「楽屋ではいい人なんだけどねぇ」と言っていたのが、印象的だった)。


アラーキーについては、実際に本書の彼の写真を見てもらうのが一番手っ取り早いんだか、ブログではなかなか難しいので、私が度肝を抜かれたシーンを目次から拾っておくことにする(カッコのなかは章の数字)。
ぜひあなたも「え?!」っていう体験をしてほしい。では行きます(写真って、こうやって撮るんだ)。


真実は見えないように!(1)
去り際のタイミング(1)
ひとつ笑っていない箇所があればいい(2)
過去を引きずらなきゃ(2)
心の空き地(3)
ピントは気持ちやコトに合わせるの(3)
写真は自分の肉体で撮る(4)
完成を求めて完成しない(4)
誘っちゃいけない、踏み込まなくちゃ(5)
ひとりぼっちには思想も何もない(6)
制約の中でやることの面白さ(8)
シャッター切るのは裏切ること(9)
てんでバラバラがいい(10)
仏像作ったやつは絶対スケベ(12)
時代とか空間とかは私自身の中にある(13)
陶酔を見ているもうひとりの自分(13)


風景学入門 (中公新書 (650))

風景学入門 (中公新書 (650))

天才アラーキー 写真ノ方法 (集英社新書)

天才アラーキー 写真ノ方法 (集英社新書)