「遊び」の精神

今週はある必要に迫られて、鳥山石燕画図百鬼夜行全画集』角川ソフィア文庫)とハラルト・シュテュンプケ鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活』平凡社ライブラリー)を読んだ。
どちらも有名な本なので、すでにご存知の方は、こうして両書を並べただけで、「ははぁ〜ん」とボンヤリ共通点が浮かんでくるかも知れない。


江戸時代に描かれた図画集と戦後のヨーロッパで公刊された1冊の書物。
時代も場所も異なる2つのテキストに共通したテイストを感じるなんて、考えてみれば、ちょっぴり不思議だ。
しかし本って、そういうもんなんだと思う。と言うより、読書って、そうやってするもので、新しい関係の発見こそが読書の醍醐味なのだと思う。


鳥山石燕は、正徳二(1711)年、江戸に生まれた。狩野派の画家である。
彼が絵師として作品を残すようになったのは、大変に遅く、40歳以降だった。もともと彼は経済的に恵まれ、収入のためではなく、もっぱら自己表現のための手段として、絵画を嗜んだようだ。
その石燕がもっとも好んで描いた題材が、魑魅魍魎、百鬼夜行の妖怪の類だった。本書ではそうした妖怪たちが次から次へと繰り出してきて、何度見ても飽きない。


今回あらためて本書を読み、感銘を受けたのは、石燕の絵師としての技術の高さはもとより、その絵に付けられたキャプションの方である。つまりは彼の博学ぶりだ。これはただ者ではない。
日本の古典文学はもちろんのこと、和歌・俳句、仏教説話に中国古典、さらには本草学に至るまで、ありとあらゆるテキストを博捜し、その上で彼は一匹(?)の妖怪を描いているのだ。
画図百鬼夜行」の序文には「石燕なるもの、画にあそぶ」と記されているが、「あそぶ」とはこういうことを言うんだね。
そしてさらに痛快なのは、石燕はそうした博学な知識を駆使して、古から伝わる妖怪たちを画に描いていく一方で、オリジナルの化物をところどころに混在させていることである。妖怪に本物と言うのも変だが、つまり本書には正統的な本物の妖怪たちに混じって、石燕が考え出した冗談の、偽物の妖怪が跳梁しているのである。
一体、どれが本物で、どれが偽物か? それを見破るのも本書の楽しみのひとつだろう。


そういった意味で、石燕の「あそび」の精神を受け継いでいるのが、先に挙げたハラルト・シュテュンプケの『鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活』である。
これはタイトルとその副題にある通り、ハイアイアイ(Heieiei)群島に棲息する「鼻行類」という、まったく新しく発見された哺乳類に関する生物学の学術書である。


ハイアイアイ群島は、日本の捕虜収容所から脱走したスウェーデン人・シェムトクヴィストによって、偶然に発見された。
その群島では、原住民たちの暮らしと文化があったにも関わらず、奇跡的なことに独特な生物界が保存されていた。なかでも注目すべきは、「鼻行類」であった。彼ら(?)は、読んで字のごとく、四肢のかわりに鼻を使って行動する、非常に珍しい生きものである。
その種類は実に豊富で多様なのだが、緻密な調査の結果、大きくは「単鼻類(Monrrhina)」と「多鼻類(Polyrrhina)」の2つに分かれることが判明している。さらにその後の研究では、いくつかの異見もあるようだが、本書の著者によると、「単鼻類」は「古鼻類」・「軟鼻類」・「硬鼻類」に、また「多鼻類」は「四鼻類」・「六鼻類」・「長吻類」に分類されるということらしい。


実際、本書では、その分類にしたがって、鼻行類が順々にわかりやすく、詳細な図版とともに紹介・説明されている。
なかでも、とりわけヤドリトビハナアルキとツツハナアルキの共生の仕組みには興味深いものがあった。
ヤドリトビハナアルキは空腹になると、獲物を捕らえ、無事、獲物を捕らえると、慎重にツツハナアルキに接近し、捕らえた獲物を貢ぎ物としてツツハナアルキに捧げる。すると、ツツハナアルキは、まず獲物のいきを確かめ、満足ならヤドリトビハナアルキに胸をさしだし、乳を与える。しかし獲物のいきが悪かったりすると、すぐさま防御姿勢をとり、持参者であるヤドリトビハナアルキに悪臭の分泌物を吹きかける、というのだ。


だからヤドリトビハナアルキにとって、〈売りこみ儀式〉は、まさに生命を賭した、必死なものとならざるを得ないのだが、ツツハナアルキの方は案外気まぐれで、機嫌がいいと、ただで乳を与えてくれることもあるらしい。ただそんな場合でも、ヤドリトビハナアルキがいかにも健気なのは、ツツハナアルキにダミーの獲物を持参することを忘れないことだ。なんだか労働者の性を見るようでちょっと悲しい。もしヤドリトビハナアルキが日本人だったら、「つまらないものですが……」なんて言っているんだろうね。なんとも珍妙な共生関係である。


そんな変わった鼻行類たちがいるなら、「ぜひ本物をみたい」と思ったあなた! 残念ながら、もはや本物を見ることは叶わない。
と言うのも、ハイアイアイ群島は、秘密裏に行われた核実験によって、群島全体が海面下に沈んでしまったからである。当然、ハイアイアイ・ダーウィン研究所も貴重な資料もすべて失われてしまった。
幸いなことにシュテュンプケによる本書の記録だけが残された、というわけなのである。


石燕もシュテュンプケも実に楽しいね。これが「遊び」なんだね。
でも、こうした「遊び」を決して軽んじてはならない。なぜなら、世界はこうした「遊び」の上に成り立っているからだ。
その証拠に、百科事典もウィキペディアも石燕とシュテュンプケといったいどこが違う? 「知」の成り立ち方は同じでしょ? いやいやいや、もっと言えば、石燕とシュテュンプケが行ったのは、むしろそうした「知」の成り立ちをパロディ化して、その仕組みを表沙汰にしたということだ。


私たちは本物とか偽物とか、オリジナルとかコピーとかに変にこだわるから混乱してしまうのだ。テキストも読書もブログもネットも、知も世界もすべては組み合わせで成り立っていると思えばいい。
オリジナルにこだわるから、今の世のなか「自分の居場所がない!」なんて、悲観的になってしまうのだ。「自分」というものに固執するから苦しいのだ。「自分」なんて、もういい加減にして、この時代を楽しもうよ。こんなにエキサイティングな時代はないんだからさ。
「自分」は誰にだってなれるし、誰とだって繋がっている。その気になりゃ、女子高生にも、看護婦にも、メイドにもなれるしね。


その象徴的なトポスがアキバだったんだけどねぇ。
現代日本には、石燕とシュテュンプケの「遊び」の精神がまだ足りないようだね。


鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

鼻行類 (平凡社ライブラリー)