パラパラ読書

今週はある訓練のためにアイリーン・トリンブル/メアリー・オーリン作『ルイスと未来泥棒』(偕成社)を読んだ。ディズニー・アニメの小説版だ。
今日はたまたま日曜で、多少時間もあったからTSUTAYAでDVDも借りてきて、息子と一緒に映画の方も鑑賞した。


ディズニー・アニメにしては、それなりに楽しめる内容だったが、正直言うと、端から中身を期待していたわけではない。ただ本をパラパラしたかっただけなのだ。(さすがに電車の中でパラパラするのは、恥ずかしかったが……。)


子ども用に作られているためか、この偕成社のディズニー・アニメ小説版は、実に丈夫にできていてパラパラしやすい。またところどころ、アニメのカットも挿入されていて、イメージが浮かびやすいのもいい。


案外、忘れられていることだが、手にしっくりくる大きさで、パラパラできるのって、本にとっては重要な要素の一つだと思う。私はできれば、同じ本を繰り返しパラパラ、パラパラしたいのだ。


話は変わるが、先週の土曜は、幼稚園の父親参観だった。私はドキドキしながら息子の様子を見に行ったのだが、そのとき担任の先生がみんなの前で紙芝居をしてくれたのが、とっても懐かしかった。
すっかり忘れていたけど、子どもの頃、紙芝居は何にも代え難い楽しい一時だった。絵と物語が同時に進んで、どんどんイメージがふくらんでいったものだ。


ディズニーのアニメだって、もとを正せば、この紙芝居のワクワクからはじまっているのではないか。アニメは1秒間に数コマの画像を送り、キャラクターに動きをつけるわけだが、本をパラパラするのもそれによく似ている。
もちろん本は絵ではなく、ただの文字情報なのだが、それでもパラパラしているうちに、主人公のルイスは動き出し、笑い、泣き、そして未来の危機を救う。
この本をパラパラしていたのも、実はその訓練のためだ。まだなかなか頭の中で文字からイメージへの変換が十分にできないが、もう少し練習してみたいと思っている。


さて本書とあわせて読んでいたのが、マックス・エルンストの『百頭女』(河出文庫)である。これは最近、師匠に教えられ、東京に出かけた際に慌てて買い求めたものだ。
マックス・エルンストは、20世紀に活躍したドイツ出身のシュルレアリスト。訳者の巖谷國士によると、本書は1929年、朋友アンドレ・ブルトンの緒言を得て、パリのカルフール社から限定1,000部で出版された。
こんな奇書を日本語で、しかも文庫で読めるんだから、日本は贅沢というか、何というか、やっぱりけったいな国なんだと思う。


本書の中身も実にけったいで、文学による絵画というか、絵画による文学というべきか。左ページにのみエルンストによる絵とキャプションが載せられていて、話がどんどん進んでいく。全体で9章まであるのだが、そのストーリーはなんだかよくわからない。謎のままなのである。


いやいや、そもそも絵もキャプションも謎なのだ。怪しげで不気味で、犯罪の匂いの立ち込めるおどろおどろしい絵の中に、それとは全く関係のなさそうな裸の女が横たわっていたり、血を流していたり……。地面からはニョキッと手首が生え、空からは男が降ってくる。キャプションは「そして彼女の球体−幽霊は私たちと再会するだろう……」という感じ。


エルンストを絶賛していたブルトンは、エルンストのこの手法をデペイズマンと呼ぶ。デペイズマンとは、追放すること、異国に移すこと、環境をかえることで、シュルレアリスムにおいては、きわめて重要な概念の一つ。
ロシア・フォルマリスムの異化作用と重ねて理解すれば、わかりやすいかも知れない。


147葉の絵と文による『百頭女』は、まさにデペイズマンのオンパレードだ。ちょっとやそっとじゃ、理解できるはずもない。
さらに当のエルンストは、これらの絵をコラージュという方法で描いている。巻末に付された彼に捧げられた澁澤龍彦のオマージュでは、コラージュは「一種の錬金術であって、すでに出来あがっているものの内容を人工的に組み換え、その全体的な様相を一変させる技法」と説明されている。
おまけにエルンストは、そのコラージュを『博物誌』のテイストで行っているのだから、魅力的でないわけがない。意味がわからなくとも読者は何度も何度もページを開きたくなるというものだ。


前回は鳥山石燕の『画図百鬼夜行全画集』を紹介したが、『百頭女』はその西洋版と言ってもよいだろう。『百頭女』はアニメ、紙芝居に通じる奇妙だが、貴重な一冊である。
本屋の立ち読みでもいいから、ぜひパラパラしてみてほしい。
私の妹かも知れない、百頭女が生き生きと動き出すこと請け合いである。


ルイスと未来泥棒 (ディズニーアニメ小説版)

ルイスと未来泥棒 (ディズニーアニメ小説版)

百頭女 (河出文庫)

百頭女 (河出文庫)