ターナーのやぶにらみ

「馬鹿野郎」だの「間抜け」だの「頓直」だの、ケンカを売っているような「悪態」が口から威勢よくポンポン飛び出せば、さぞかしストレスを感じなくて済むだろう。


「陰口」はたたくが、面と向かって「悪口」をぶつける人は、今はあまりいないだろう。
このことは個人の精神衛生の問題ではなく、社会の精神衛生の問題かもしれない。「悪口」を正面からぶつけ合うことができれば、社会は必然的に健全な方へ進むのではないか。


と、いうことに気づかせてくれたのが、井上泰至『〈悪口〉の文学、文学者の〈悪口〉』だ。〈新典社新書〉という新しいシリーズの第3弾である。
この本は妻の在所に遊びに行ったおり、たまたま近所の有隣堂で見つけて買った。著者にも出版社にも特段、思い入れがあったわけではないが、なんとなくタイトルが気になって他の本と一緒に購入したのだった。


著者は近世文学の専門家らしく、本書には芭蕉西鶴近松、蕪村、馬琴などの口をついて出た〈悪口〉の数々がエッセイふうに、実に読みやすく紹介されている。挿絵が豊富なのもよい。
それにしても江戸時代には、こんなにも面と向かって〈悪口〉の応酬が繰り広げられていたなんて、ちょっとうらやましい気さえする。


たとえば、本居宣長上田秋成
宣長は70歳の祝いの際、自分の肖像に「敷島のやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と書き付けて門人に配った。それに対し、秋成は「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とやりこめる。
宣長の言葉には桜と自己を重ね合わせるいやらしさがあり、それを「またほざいているよ」と切って捨てる秋成の〈悪口〉は小気味よい。


両者が学問上のライバルであったことはつとに知られているが、ここでは「そんなの関係ねー」である。立場もへったくれもない。一見、子どものケンカにも似た軽妙な心意気をも感じる。〈悪口〉は、こうじゃないと吐けないのだと思う。
自分の立場とか品格とかを気にしていては、とうてい〈悪口〉など言われない。要は個人や社会に立場もへったくれもなく、〈悪口〉を聞き入れる度量があるかどうかだ。
今は全体的にそのキャパシティーが落ちているんだと思う。部下には自分と立場の違う敵をおかなきゃ。


本書は気晴らしにサッと読んだ本だが、これと並行して桑島秀樹『崇高の美学』講談社選書メチエ)を読んだ。こちらは自分の研究と重なることを期待しながら読んだ。
ようやくここで告白するが、私は坂口安吾の文学を読み解くのに、〈ピクチャレスク〉とか〈崇高〉といった美学概念が有効ではないかと目論んでいるのである(もっとも以前に柄谷行人がそんな議論を少し展開しているんだが……)。


さて本書は「石ころへのオマージュ」から始まり、「崇高論」の入門書としては、今のところ最もわかりやすいものではないかと思う。
バークやカント、ジンメルラスキンなど、主要な人物はあらかたとりあげられているし、ところどころ著者の体験談も挿入され、「えっ! こんなのまで?」というマニアックな本の紹介もあって、それなりに楽しめる。
あらためて〈崇高〉という概念の幅の広さとその可能性を感じる。


〈崇高〉とは「激しい心情変化をともなう一種ダイナミックな精神的高揚感」だと著者は説明する。
この感覚は当時「ロマン主義」と強い関連をもち、20世紀以降はフェミニズム思想(例の「アブジェクション」だね)やテクノロジー表象などを分析する主要な概念ともなった。


〈崇高〉概念には、もともと「グランドツアー」による「アルプス越え」体験が深く関わっている。
先日も日本では東北地方で大きな地震があったが、時に自然は想像を超える力で人々に牙をむく。
アルプス山塊を前にした当時のヨーロッパ人も、同じように自然のもつ圧倒的な脅威とその醜悪さを感じ、そこに秩序ある神の世界を超えるものを意識した。違和感としての自然に恐怖を感じつつも、同時に好奇心や高揚感に掻き立てられたのである。
〈崇高〉は、人々のそんなアンビヴァレンスな感覚に胚胎している。またここには人が神からはなれ、自己に向かう契機も秘められている。「ロマン主義」と相性がよかったのもそのためだ。


哲学者のカントは、この〈崇高〉概念を「数学的崇高」(絶対的な大きさや多数性)と「力学的崇高」(絶対的に大いなる圧倒的な力)の二様に分類、整理した。
安吾で言えば、前者が「桜の森の満開の下」で、後者が「白痴」にあたるだろうか。これはなにも突拍子もない思いつきではない。
事実、著者の桑島も本書の後半では《アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ》と言い放ったアドルノやJ・F・リオタール、それに「歴史的崇高」という概念を打ち出したベレル・ラングなどを援用しながら、戦争、とりわけ圧倒的な破壊力を示した原爆というものを問題にしている。


《想像できないことだが、それがじっさいの歴史上に現実化してしまった》「歴史的崇高」としての原爆。
そんな「表象不可能性」としての原爆をいかに語り、ヒロシマをいかに「アート化」していくか?
著者は、かつて「モダン・ペインター」が行ったように、「地」へゆっくり沈潜し、「断片」を凝視し続け、綿密に「記述」するしかないと言う。そこに新たに〈崇高〉が宿り、〈かたち〉を受肉する可能性も開かれると言う。


そうだ、私たちは今、あまりにも大上段に構えすぎていないか。「断片」を凝視し続けること。まずはここからはじめたい。


私が本書をとりあげたのは、なにも著者に〈悪口〉を言わんがためではない。
本書を読んで印象的だったのは、「地質学の美学」を見出し、当時の絵画を近代へ一歩も二歩も推し進めたターナーが自身の大作を「風景画の巨匠」クロード・ロランの大作と並べてナショナル・ギャラリーに展示するよう求めたというエピソードである。
これは実際に今もそのように配置されているらしいが、この要求はターナーによるロランへの無言の〈悪口〉だったに違いない、そう思ったのである。
これこそ〈悪口〉が社会を、時代を動かす好例ではないか。


<悪口>の文学、文学者の<悪口> [新典社新書]

<悪口>の文学、文学者の<悪口> [新典社新書]

崇高の美学 (講談社選書メチエ)

崇高の美学 (講談社選書メチエ)