私は誰?


今日は坂口安吾の53回目の命日だ。(アップする前に日付が変わってしまった。いや、ギリギリセーフかな?)


こうして一人自宅でこの原稿を書いている今、東京では恒例の「安吾忌」がお開きになり、もう二次会、いや三次会がはじまっている頃だろう。(いつも幹事役のNさんからお誘いいただいているのだが、今年は仕事と家庭、それに体調……もろもろの事情で欠席してしまった。)


今夜の私は、昨日ケータイから報告したが、ピーター・グリーナウェイの余韻に浸るどころか、何とも言えない重苦しい闇に未だ引きずられたままにいる。(たぶん、現在置かれているひとりぼっちの環境が影響しているのだろう。)


一体、家庭って何だろう?
一体、夫婦って何だろう?
一体、生活って何だろう?
一体、生きるって何だろう?
一体、命って何だろう?


こうやって書き出してみると、なんだかどれもこれも安吾的だ。


巷で話題の本には、たいていガッカリさせられることが多い。
が、福岡伸一生物と無生物のあいだ講談社現代新書)は、スリリングで、すこぶる痛快だった。京大を出てアメリカの研究機関で活躍してきた分子生物学者の著者が、一般の人にもわかる平易な言葉で「生命とは何か」を説いた本である。


今やお札の顔にもなっている有名人・野口英世は、アメリカをはじめ、世界ではまったく見向きもされていない(彼の業績はほとんど間違いであるらしい)とか、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって発見(?)され、のちにノーベル賞に輝くDNAの「二重ラセン構造」説は、わずか1,000語(1頁あまり)の論文に過ぎなかったとか、私たち人間の身体は半年も経てば、分子レベルではまるで別人、「お変わりありまくり」状態であるとか、とにかく目からウロコの話がこれでもかこれでもかと続く。
また必ず「場所」から説き起こし、巧みな比喩を駆使して説明する福岡の文体も読みやすい。


なかでも今回もっとも唸らされたのが、動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)という考え方だ。福岡は「生命とは自己複製するシステムである」と定義するだけでは不十分で、そこにはもう一つ「動的な秩序」がなければならないと言う。


その秩序をもたらすのが「動的平衡」だ。これは「砂上の楼閣」をイメージすれば、わかりやすい。
海辺につくられた「楼閣」は、風や波などの影響を受け、小さな砂粒が徐々に崩れ落ちるのと同時にその崩れ落ちた隙間に瞬間的に新たな砂粒が入りこみ、「落ちる→入りこむ」、「落ちる→入りこむ」のサイクルを繰り返しながら、全体としては微動だにしない「楼閣」の姿を保っている(ように見える)のだ。


もともとこの「動的平衡」を実験で証明して見せたのは、ルドルフ・シェーンハイマーだった。
彼はここから「生命とは、要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらす効果なのだ」と結論づけた。画期的だ。「生命とは動的平衡にある流れである」。
これを少し言い換えると、やや逆説めくが「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」となる。
我々は壊れてナンボ。壊れなきゃ生きていけないのだ。


かつて量子物理学のシュレディンガーは、「生物は〈負のエントロピー〉を食べている」と明言したが、福岡によると、生物は「動的平衡」の「流れ」を食い止めないために、さらに驚くべきシステムを開発しているようだ。
しかしこれ以上、複雑な生物学の話を追跡するのはやめておこう。ただここに記した逆転の発想は、ぜひとも肝に銘じておいたほうがよい。
私たちは一つところにとどまっていてはならないし、またとどまっていては生きていけないのである。


福岡の本を読みながら思い出したのが、河野多恵子『半所有者』(新潮社)だ。ずいぶん前に買ってほったらかしにしてあった本だが、まず何よりタイトルがDNAの「二重ラセン」を想わせる。また装丁が美しく、これを何というのだろうか、1頁1頁が袋綴じのような形になっていて、まさしく「対構造」を手で確認しながら頁を繰っている感覚に襲われる。さらには挿画の蝶が偶然にも生物学者・福岡の幼き思い出とも重なっている。


この本は、妻の遺体を〈己のもの〉にするため、夫である久保氏が死体性交をする物語である。
久保氏の行いは、病院の看護婦や葬儀社の男、あるいは親族、あるいは息子夫婦たちにさえ儀礼的に扱われ、蔑ろにされていく妻の骸を慈しみ、自らの手中に取り戻すための背徳の、いや愛の儀式であった。


そのショッキングな内容は、しかし福岡の本に遠く及ばない。今や小説家でさえも、ある程度は最新の科学に精通していなければならないということだろうか。河野は「妻は誰のものか」と問うのではなく、「自分は誰のものか」と問うべきなのだ。冷たくなった亡骸を抱き、下着を剥ぎ取って自らを慰撫するこの俺は一体誰なのか、と。


最近、私は「自分は誰のものでもない」ではなく、「自分は誰のものでもある」という答え方が一番正解に近い気がしている。


そう言えば、安吾はさすがに「私は誰?」と問い、いっさいは「無」であると知悉していた。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

秘事・半所有者 (新潮文庫)

秘事・半所有者 (新潮文庫)