メメント・モリからはじまる?


ブログを始めて気がついたことがある。
それは日常そのものがブログのためのネタ探しになってきたということだ。
これまで「書く」ということにあまり貪欲になれなかった自分にとって、これは多分いいことなのだろう。


香西秀信『教師のための読書術―思考量を増やす読み方―』明治図書)は、「国語教師はなぜ「書く人」になろうとしないのか」、自分の文章をモデルとし、生徒たちに自身の技術を示すべきだとして「書くための読書術」を説いた本である。
ふだん私たちは、書くことを意識して本なんて読まないから、「書くために読む」というアイディアがとてもユニークだ。
ブログを書き続けているせいか、この感覚、妙にわかる気がした。


筆者はもともとレトリックの研究家で、レトリックとは「他人の褌で相撲をとる技術」だと言う。
要は他人の思考を模倣し、借用し、自分の中に組み込み、はき出す。その繰り返し。
学ぶとは「まねぶ」なのだ。これを「変換」と言ってもいいし、「引用」と言ってもいい。


オリジナルとか、個性とか、そういうことを持ち出す人間を私はあまり信用しない。そんなもの、ありはしない。
だいたい言葉ひとつ取り去ってみれば、わかる。たとえば、「ツクエ」。この日本語を取りあげられた途端、私たちは「机」を考えることができなくなる。
「ツクエ」という言葉は、当然、私だけのものではない。長い時間をかけて多くの日本人が使い、醸成してきたもので、たまたま今は私が受け継いでいるにすぎない。
その辺のところ筆者は思考が先行してあるのではなく、言葉にされることで思考が発生する、と説明している。


先にも記したように、筆者はレトリックの専門家なので、まさに「釈迦に説法」なのだが、今夜は特別だ。このブログのごく少数の読者のために、説明しておこう。
古代ギリシャでは、場所と結びついた記憶を「トポス」と呼び、それを再生することを「トピカ」と呼んだ。(ちなみに、そうしてそこから取り出される情報が「トピック」だ。)
だからレトリックとは、筆者も述べているように、単なる比喩や言葉のあやではなく、「トピカ」に代表される一種の「思考術」なのである。もっと言えば、「トピカ」(トピック)を示す指標なのだ。


こうした前置きのあと、筆者は「類似」や「反論」、「弁証法」などの具体的なメソッドの解説に進んでいくのだが、正直なところ、本書のその後半部分は冗長であまり面白くない。実際に「書く」のに役立つことも少ないと思う。
私にとって面白いのは、テクニックそのものより、やはり「トピカ」の方だ。


私たちの記憶にとって、「場所」がいかに大切であるか、このことは改めて考え直されてよい。(実は前々回あたり福岡の本の紹介のところで、これ少し書いておいた。驚いた?)
そもそも私たちは、なぜ故人を偲ぶのに、古今東西、お墓をたてるのですか? 
私の専門で言えば、歌人俳人の歌碑・句碑の類は、日本全国、枚挙に暇がないし、古来、日本人はすでに「歌枕」というすぐれた「思考術」をも編み出していた。これは個人の記憶どころか、集団によるハイパーリンクであったに違いない。その場に行ったことがない人でさえ、「深草」と言えば、共通のイメージが浮かび、すぐさまそこに飛んでいけるのだ。


それに比べ、現代人の「記憶術」の貧困なこと。何が「脳トレ」だろうねぇ。そんな脳は「もうトレ」だ。(すまん!)
前にもちょっと触れたことがあったが、昨晩ついに自宅のPCが身罷られた(合掌)。バックアップしていなかった記憶データをなんとか復活させたいんだけど、こうなると、もうお手上げだ。ただちに再生できる現代人はほとんどあるまい。
「トポス」と「トピカ」を忘れたツケがまわってきたのだと思う。


今や日本はどこに行っても同じ風景が広がっている。
国道沿いの巨大なストア、それにファミレス。パチンコ店にレンタルショップ
建築家のみなさ〜ん! これ、なんとかなりませんかねぇ。これでは私たちの生きた証が希薄になるばかりで、ぜんぜん刻めませんよ。


そこで思い出したのが、藤原新也メメント・モリ(情報センター出版局)。ロングセラーの名著だ。
メメント・モリ」、「死を想え」。
藤原は本書の冒頭で「いのち、が見えない」と言う。そして現代では「生きている中心(コア)がなくなって」、「しぬことも見えない」と。「死は生のアリバイ」とする藤原は、インドをはじめ、アジア各地の「場所」をカメラにおさめ、そこに死と生を同居させた。
犬に足を囓りとられる死体。強烈だ。でも恐ろしくはない。「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」とコメントされると、なんだかありがたい。
私の好きな一枚は、「穴」の写真。「穴」しか写っていないのだが、何とも言えない深みがある。


今週は、学年末試験と採点。そのうえ出張があり、おまけに今日は入学試験。そんなこんなで相変わらず、むちゃくちゃ忙しかったのだが、さらに身近な人の関係者が亡くなったりして、「死」というものを意識する一週間であった。


幼い頃、遊びのなかで近所のお兄ちゃんに「死」という言葉を教わり、ものすごく怖くなったことがあったけど、30代になり、自分も時々その「死」を思い出すようになった。


藤原の本には「生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい」とあるのだが、今の私には、まだその準備はできていない。
それは生きているあいだにもっと書きたいことがあるからかも知れない。


香西さんはそんなこと一言も触れてないけど、「トポス」・「トピカ」・「レトリック」って、ひょっとして「メメント・モリ」からはじまるんじゃないですか?

メメント・モリ

メメント・モリ