あえてミクロを固持する


知らない間にNHKで私の映像が流れたらしい。たまたまテレビを見ていた義母が興奮気味に教えてくれた。いや知らなかったのではなく、単に私が忘れていただけだ。


録画していた同僚からテープを借りて、後から見た。
しかしビデオやテープに録った自分の声って、どうしてこんなに変なんだろう? ふだん自分はあんな声でしゃべっているのかと思うと、幻滅するよ。


そこで、というわけでもないが、今週は楠瀬誠志郎『人生と運命を変える声の育て方』(マガジンハウス)を読んだ。教師という職業柄、「声」には以前から関心があった。(たぶんにコンプレックスから来ているのだが……。)


著者の楠瀬はかつて「ほっとけないよ」などで大ヒットをとばしたシンガーソングライターだが、最近は「発声表現研究家」、いわゆるボイストレーナーが本業のようだ。もともとは彼の父がそうした研究を行っていた人らしい。


本書にはエクササイズCDもついていて、発声のためのストレッチや具体的な12のメソッドが説明されている。
CDはまだ聴いていないが、ちょっとストレッチしただけでも調子は上々、意外に効果があるかも知れない。(それにしても身体が硬くてストレッチが痛いこと、痛いこと。)


楠瀬は「カラダを響かせる声」が「本当の声」だと言う。「声帯を最小限に抑えて、音を骨に響かせ、その響きをゆるめた筋肉で増幅する」、これが楠瀬メソッドの第一法則だ。


で、私の場合は、自己分析する限り、こもって通らない、不明瞭で聞き取りにくい声だと思う。「えっ?」と聞き返されることもしばしばだ。
楠瀬によると、これは呼吸不足で、僧帽筋が緊張して肩が上がり、胸が狭まって音声が前に飛ばないのが原因らしい。ストレッチをし、大きく口を開けて笑うのがいちばんの対処法らしいのだが、近年の教師は笑ってばかりはいられない。


楠瀬はこの発声メソッドでビジネスを成功させ、人間関係を円滑にし、最終的には人を感動させることまでを目標とする。なかなか壮大だが、「声」は大切なコミュニケーションツールでもあるから、あながち夢物語でもあるまい。


本書を読んでいたせいもあって、本屋をぶらついてたら、『野口雨情童謡集』(弥生書房)が目にとまり、昨日は衝動買いをしてしまった。武井武雄が表紙カバーをデザインしていて小柄な美しい本だ。
私は本屋に行って時間があるときは、なるべく児童書のコーナーを覗くようにしている。大人向けの本より丁寧に作られているものが多いし、なにより意外な発見があって楽しい。本書もそうして見つけた一冊だ。


シャボン玉、とんだ。屋根までとんだ。
屋根までとんで、こわれて消えた。

シャボン玉、消えた。飛ばずに消えた。
うまれてすぐに、こわれて消えた。

風、風、吹くな。シャボン玉、とばそ。


さっそく今朝はこの本を手にし、全部声に出して読んでみたのだが、それにしても雨情のこの哀しい調子はなんだろう。シャボン玉に対して「うまれる」という言葉を使い、しかもそれが「こわれて消える」。もうたまらない。
彼の言葉には、いつも風が吹き、パラパラと雨が降り、切ない別れが滲み出る。いつかこの秘密に迫ってみたい。


今週は、雨情ではあまりにも先書とマッチしすぎているので、雨情ではなく、ヨハン・ガルトゥング『平和を創る発想術 紛争から和解へ』岩波ブックレット)をとりあげたい。


これはたまたま同僚の英語教師から教えられた本だ。ふだんはお互いに忙しくて余計な話をしている暇はないのだが、この時だけは立ち話に花が咲いて、お互いの手の内を明かすこととなった。彼女はガルトゥングの発想に共鳴して、学校の仕事、研究とは別にトランセンド研究会というところで活動をしているらしい。
アメリカを中心とした資本主義グローバリズムに対抗する活動。身近なところに同志を発見して嬉しかった。


さて本書の内容だが、ガルトゥングは紛争を解決する手段として新たなアイディアを創造する転換(Transcend)が必要だという。


具体的に説明すれば、経営悪化に苦しむ会社が1,000人いる労働者の半分をリストラしようとしている。当然、労働者側は「一人の解雇も認められない」と対立する。が、これでは会社は廃業せざるを得ない。さてどうするか? 
著者は両者が対立する軸の斜め、すなわち楕円形上に解決策を探すことを提案する。250人の労働者をクビにし、業績をあげる折衷案もその一つだが、いっそのこと会社の形態を協同組合にするということも考えられる。この両者の対立からちょっぴり飛躍するアイディア、これがトランセンドだ。
要は「な〜んだ、知恵を出し合えば、これまで気がつかなかった意外な解決策があるじゃないか」ということだ。
なかなか面白い発想だと思うが、果たして国際的な政治レベルで本当に通用するかどうか。


ただし私たちの日常に密着したミクロなレベルでは有効だろう。なかでも「ホーポノポノ」という提案は痛快だ。これはポリネシア語で「曲がったものをまっすぐに直す」という意味らしい。
たとえばAが暗い夜道でBにスリをはたらいた、とする。欧米だとAを逮捕し、法廷で裁くことになるが、「ホーポノポノ」ではAだけの責任を追及せず、Aに関わる皆が「しなかった」自分の責任を総括する。
Aの母親や友人たちはAの異変に気がつかなかったことを反省し、BもBの家族・友人も「うかつだった」ことを反省する。さらに近隣の人たちは「街灯の電球が切れていたのにほっておいた」ことを反省する。


これは革命的だ。だいたい今の先進諸国は、世の中を善悪で二分しすぎるのだ。(それがキリスト教の宿命でもあろうが。)ここに法制度が紛争を解決するのに不向きな理由がある。ひょっとして私たちは根本的に間違っていやしないか。


「ホーポノポノ」では、Aは「償い」とともに、「コミュニティーのメンバーとして復帰すること」がすでに準備されている。
これはぜひとも教育に応用すべきだ。たとえば、いつまでたっても遅刻がなおらない学生。それは彼だけが悪いのではなく、彼の家族、クラスメイト、担任を含めた教師集団、みんなで反省すべき事柄なのだ。カンニングも同様、皆で再発の防止策を探るべきかも知れない。カンニングした奴が悪いと切り捨てるのではなく、彼にカンニングをさせてしまったのはなぜだろう、と。


ガルトゥングは、上意下達のコミュニケーションではなく、四者の対話が大事だと言う。学校で言えば、教師と学生、それに保護者と+1。この+1に私は地域住民を加えてみてはどうかと考えている。地域住民による教育アドバイザー。
何か問題が起こったとき、社会の目から見た助言をもらう。身内に閉ざした空間にあえて外部の視点を持ち込む。学生の方も教師以外の社会人の言葉に耳を傾ける。学内では大目に見てもらえても社会では許されない行為はいくらでもある。マスコミが殊更に大騒ぎするのは、たいていこの手の事例である。学校側は隠蔽しているのではなく、感覚がマヒしているのだ。当の学生にとっても、社会の厳しさを垣間見るいい機会になるし、学校側にとっても教育の歪みを正すきっかけになる。
いや、なにも学校には限らない。日本はもっと既存の組織に異質な他者を取り入れるべきだろう。


ガルトゥングの本には、他にも地域通貨(エコマネー)に基づいた「時間の貯蓄」という提案やドイツをモデルとした歴史教科書の書き換え運動など、可能性を感じる記述が散見される。
が、全体的にはちょっと楽観的すぎる印象を受けた。その証左に本書の最後にはブッシュとフセインの架空の「対話」が載っているのだが、現実にはそう簡単に夢のようにはいかなかった。フセインはとっくに殺されてしまった。


楠瀬も書いていたけれど、だいたいブッシュの「声」は悪すぎる。甲高くていちいちしゃくにさわる。あれでは「対話」にならない。まずはそこからやり直すべきではないか。


私は文学研究を通じてマクロな政治を語るつもりはない。(最近はそういう浅薄な研究が流行っているのだが。)ミクロこそが根本的な問題を発見し、解決に通じる近道だと信じるからだ。(そもそも政治をしたり顔で語る奴が嫌いなのだ。)


テレビのようなメディアで不特定多数に語るのは苦手だ。私はあくまで特定少数に語りかけたい。


(今週も忙しかった。年度末の成績処理に加え、突然のお葬式もあった。
自宅のパソコンは相変わらず使えず、今夜はモバイル通信による更新となった。)

『人生と運命を変える声の育て方』 自分の「響き」をゲットできるレッスンCD付き

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平和を創る発想術―紛争から和解へ (岩波ブックレット)

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