本と本棚のキャラクター


さすがに今回は更新が遅れてしまった。
きのう朝までかかって原稿は書いたんだけど、一日に2件の原稿をアップする仕方がわからず、日付が変わってしまった。


春は別れの季節。この3月になると、「卒業する先輩に色紙を贈りたいんで、先生も何か一言書いて下さい」と後輩たちが慌ててまっ白な色紙を持って来る。内心(えっ! 俺が最初?)と思いながら……急に言われても、やはりいい言葉なんてなかなか浮かばない。ありきたりの文章ではつまらないし、せめてその卒業生に見合う漢字を贈りたいと思うのだが、字のへたくそな私では、その作戦はかえって見栄えが悪くなる。


そんな折り、手頃な参考書として見つけたのが、鈴木響泉著『古代文字で遊ぼう』(可成屋)だ。これは先月、部活関係でひさびさ千葉まで出張した帰り、たまたま立ち寄った本屋でたまたま見つけた本だ。私は最近、この「たまたま」ということを大切にするよう心がけている。もう一つ、同シリーズの『梵字を楽しもう』といった本もあって迷ったのだが、その時はあまり持ち合わせがなく(いや、いつも持ち合わせはないのだが)、後でちょっと述べる理由で鈴木響泉の方を選んだのだった。


先にも触れたように、色紙に何か文字を書くといったって、さして達筆でもない私(一応小学生までは書道教室に通っていたんだけどね)は、本当に困ってしまうのだ。
その点「古代文字」なら、達筆じゃなくともなんとなくうまく見えるから不思議だ。本書の巻末には、四季の挨拶状やお祝い・励ましの手紙に使える「古代文字ミニ字典」もついていて便利である。それらの文字をなぞるだけでも実に楽しい。


先月、松岡正剛のナビゲートで漢字学者白川静の世界を追究するNHKの番組が放送されていたが(Kさん、見ましたか?)、実際に本書で「古代文字」をトレースしてみると、白川静がその魅惑に取り憑かれていった感覚がわかってくる。「あーそうか、この字はこんなふうにしてできたんだな」っていう、漢字一字一字の生い立ちに出会っているような気がしてくるのだ。ホント嘘じゃなく、〈意味〉を超えた〈祈り〉みたいなものが伝わってくるのだ。本屋で迷ったあげく本書の方を購入したのは、この白川静のことが引っ掛かっていたからだ。


「古代文字」とは、著者の鈴木響泉によると(いま気づいたけど、この著者「響」なんだね)、古代中国での文字の誕生から秦の始皇帝による文字の統一まで、1,000年以上にわたり中国各地で使われていた文字のこと。大きくは年代順に「甲骨文」・「金文」・「小篆」の3つに分かれる。
「甲骨文」は、殷の時代に用いられた最古の文字で、吉凶を占った亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻み込んだ。直線的で絵画的なところが特徴である。「甲骨文」とほぼ同時期から存在し、次の周の時代になって盛んに使われたのが「金文」。この時期には青銅器文化が発達し、それらに彫り込んだので「金文」と呼ばれる。「甲骨文」に比べると、曲線的なのが特徴。そして最後が「小篆」。これは紀元前221年、始皇帝が制定した文字で、均整のとれた姿態を持っている。以上3つがいわゆる「古代文字」。
「古代文字」からは外れるが、ついでにもう少し付け足すと、「小篆」の簡略体として同時期に使用されていたのが「隷書」。これは水平垂直の直線を基調とした横広の書体で、やがて漢の時代ではこの「隷書」が正式な書体となる。そしてさらに後漢の時代になると、私たちが今使っている「楷書」が生まれてくる。
どういうわけか、私は「楷書」よりも「隷書」の方が好きで、パソコンでプリントする(情けない)年賀状なんかはこの「隷書」の字体を選ぶことが多い。そう言えば、何かの写真で見たのだが、森鴎外は「隷書」の達人であった。


話をもとにもどそう。そんなこんなで、今年は色紙に「楽」の「古代文字」を書いて、なんとかごまかした。君は周りを楽しませてくれる存在だったよ、というメッセージだ。


さて今週は、職場で3回も講演会が行われた。それぞれに感銘を受けるところがあって、このブログでも感想を綴ってみようと考えていたのだが、それに関する本をネットで注文したものの、残念ながら間に合わず、まだ手元に届いていないので、少し予定を変更して別の本を紹介することにしたい(この辺、もう私は自由自在だ)。
と言っても、何のことはない。先書と同じ日、やはり出張の帰り(いや行きだったかな?)、駅の小さな本屋で買った本だ。ヒヨコ舎『本棚』アスペクト)。今をときめく川上未映子桜庭一樹など、作家やイラストレーターの自宅や仕事場の本棚を写真におさめ、本にまつわる思いやエピソードをインタビューしたものだ。


私は人の本棚を見るのが無性に好きで、こういった類の本には目がない。と言っても、この手の本で、実際に写真が載っているものは少ない。本棚にはその人のキャラクターがあらわれている気がする。ま、だから他人には見られたくないんだろうね。(ところで今、「キャラクター」って言葉をわざと使ったんだけど、わかるかな? 漢字ですよ。)


本書に登場する作家で一番ユニークだったのは、みうらじゅん
彼は本を買ってもすぐには読まないらしい。買った段階でもうオッケーなんだとか。なぜなら、高いお金を出して買ったということで「オレがこの本に興味があるってことがわかった」から。彼にとって本を買うという行為は、いわば種をまいとく感じで、いつか突然ばーんと扉が開くように、タイミングを逃さずその世界に入っている行ける準備をすることらしいのだ。言われてみると、この感覚はすごくよくわかる。我が家にも積ん読状態の本や読みかけの本がいっぱいあるし。でもそれって、決して無駄にはなっていないんだよね(自分に言い聞かせる!)。図書館はともかく、本は自分で買わなきゃいけないのもそのためだ。人から借りてばかりでは、いつまで経っても自分の世界は開けてこない。


次に共感したのは、山崎まどか。彼女は、本を寝るときに読む本、家にいるときに読む本、持ち歩く本と3つぐらいに分けて、未読リストから既読リストへ徐々に入れ替えていくんだとか。そして天気によって読みたい本と読みたくない本があり、読みかけでも昨日まではよかったのに今日は読めないなぁ、というものがあると言う。うん、この感じもよくわかる。なんかしっくりこないんだよね。
これは食欲にたとえるとわかりやすい。今日の昼メシはかるく蕎麦でいこうとか、ピリッとカレーが食いたいなぁとか、晩は久しぶりにこってり系でしめくくろうとか。天気や湿度、時間、体調、気分なんかで、好みは刻一刻と変わっていく。本も同じなんだろう。彼女も言っているように、読書するときの「シチュエーション」って、意外に大事な気がする。


実際の棚でスゴイなと思ったのは、石田衣良。彼は相当に儲かっているだろうから、部屋もスタイリッシュでお洒落なんだけど、私が感心したのは、本棚が本棚に終わっていないこと。本棚に本を入れるだけでなく、彼はレコードやCD、おもちゃの類、さらにはウィスキーの酒瓶、帽子まで詰め込んでいる。
本棚の空いているスペースにちょっとした小物を置いて飾るのはよくあると思うが(たとえば、私の職場の本棚にはブライス人形がちょこんと置いてある)、彼の場合は、そうではなく、他のモノたちが本とまったく同列に扱われている。どっちがメインかもわからない。これって、大事な感覚だと思う。本って何も特別なものではなく、コップや皿のような食器であり、ピストルのような武器であり、心を癒す音楽でもあるのだ。だから本がそういうモノたちの隣に、一個のオブジェとして配置されていくのは、とっても重要なのである。


本書は作家たちの日常が覗けて非常に楽しい本だったが、今ひとつ物足りないのは、本と本の並び、どの本とどの本(あるいはモノ)を組み合わせるか、ということにまったく関心が払われていないことだ。まぁ、日本の作家でそんなことまで考えているのは、ごく少数かも知れないけれど、さすがに石田はインタビューに「若い頃に影響を受けた本として、一冊をあげることはできないですね。本って一冊の影響は受けないものです」と答えていた。この考え方が、彼の本棚にはよくあらわれている。


さぁ、まとめてみよう。
白川静は「言」という漢字の「口」は、もともと「サイ」という字で、これは祝詞や呪文を入れておく入れ物だとつきとめた。
そう、本棚が本を入れる入れ物であるのは当前だけど、それだけじゃなくて、本自体がいわば食器であり、武器であり、楽器である「器」でもあって、そもそも「言葉」そのものが「器」なんですね。


なんだか先週の続きになってしまうが、何かを伝えようとして「声」を響かせるのは、「言葉」自体が「器」だからだろう。そのとき自らの身体もまた「器」と化し、その自らを含めた「言葉」の「器」に意味だけでなく、さまざまな思いやモノを詰め込んで相手に差し出していくのが、本当の意味のコミュニケーションなのだろう。これが「言葉」を贈るということだ。
さぁ、ここまでくれば、あとは本という「器」に自分が何を盛り込むかだ。本は決して著者だけのモノではない。


そうそう余談になるが、『本棚』に登場している作家たち、妙に江戸川乱歩に言及している人が多かった。乱歩率、なんと47パーセント! 乱歩自体がビブロマニアだから、なんとなく乱歩から本集めがはじまったというのも肯けるんだが……。
今週はその乱歩に関するスゴイ本を見つけてしまった。またいずれ紹介したいと思う。

古代文字で遊ぼう (アートブックス)

古代文字で遊ぼう (アートブックス)

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