封じ手の妙


先週、書き込む予定だった文章が、いろんな事情で今週にまでずれ込んでしまった。「いや〜どうも、すいません(ポリポリ)」(って、ちょっと古いかな?)


前回はアフォーダンスに関わって、イチローの身体感覚に触れたと思う。
そこでと言うわけでもないが、今回は甲野善紀荻野アンナ古武術で毎日がラクラク! 疲れない、ケガしない「体の使い方」』祥伝社)を読んだ。これは古武術研究家である甲野氏を師と仰ぎ、アンナ女史が弟子となって実際に修行し、その動きを紹介しつつ、感想をレポートするという本である。実際の動作をイラストつきで解説していて、大変わかりやすいし、なによりアンナ女史の文章がうまい。さすがダジャレの女王だ。喩えとか技のネーミングが絶妙である。


本書を読んでみて、今のところ私が日常生活で試しているのは、荷物の持ち方(人差し指と親指を使わないで残りの三本指でカバンなどを持つ)と階段の上り方(同じ側の手と足で上る)、それに肩こり解消運動「タコのお願いの術」(ね、アンナ女史のネーミング面白いでしょ?)あたり。逆にどうしてもうまくできないのが「鉄人28号歩き」。これはまっすぐ足をあげて、そのまままっすぐおろすというもの。まさにロボットみたいな歩き方なのだが、これが意外に難しい。私たちは踵から足をあげて踵からおろすという歩き方に慣れてしまっているからだ。


甲野氏の哲学の第一歩は、当たり前のことをまず疑うことにある。当たり前のことというのは、何も頭の中だけを指すのではない。私たちは身体ごと、どうもいろんなジョーシキにとらわれすぎているようなのだ。だいたい私たちは手を使いすぎている。何でも先に手が出るから、余計に力が入ってしまう。そこでアンナ女史いわく「キツネコンコンの手」でその機能を封じてしまえば、逆に身体全体を使って重たい荷物なども軽々と運べるという寸法だ。甲野氏は「人間の体はあちこちにエンジンのついている精密機械みたいなもの」だと言う。
私の場合、ここ数年、ひどい肩こりに悩まされているのだが、これなども余計なところに力が入りすぎ、肩があがってしまうからだろう。体幹をねじらず、肩をあげないというのが甲野武術の基本らしい。私などはすでにこの時点で失格に値する。古武術、なかなか奥の深い世界だ。


さて本書と並行して読んでいたのが、『新潮日本文学アルバム 井伏鱒二(新潮社)だ。
このシリーズは日本の作家たちの生涯を写真と文で振り返るというもので、私はほかに小川未明坂口安吾澁澤龍彦などもすでに読んだ。とてもコンパクトにわかりやすくまとめられていて、ある作家のことを簡単に復習したい、頭に入れておきたいという時には実に重宝する。巻末には年譜をはじめ、著作一覧や参考文献一覧もついていて内容的にも充実している。そして何より『アルバム』と銘打たれているように、作家の顔写真や暮らしていた土地の風景、生原稿の複写などビジュアル資料が豊富に載っていて実に楽しいし、テクストだけではなかなか想像しにくい作家のイメージが鮮やかに浮かんでくるのも頼もしい限りである。


あ、そうだ、言い忘れたが、今回の井伏の本はある必要性があって、わざわざ隣町の図書館まで行って借りてきたものである。その「必要性」というのは、先日のケータイからの更新でもうお気づきかもしれないが、先週の土曜日に早稲田で行われた研究会のことである。その研究会のために、先週は荻野アンナ井伏鱒二とを合わせ同時進行的に少しまとめて読み直すということをしていたのである。
平成に活躍する女性作家と昭和初期に文壇に登場した御大。繋がりがあるような、ないような……(いやぁ、ふつう一緒には読まないよね)。でも、この偶然をいかすのが「虫虫日記」なのだ! 


そう、この二人を繋ぐのが、坂口安吾だったわけである。
ラブレーの研究家である荻野さんは、作家でありながら、坂口安吾を偏愛して小説的文体でいくつかの評論を発表している。一方、井伏はその安吾が先輩作家として注目していた作家の一人だった。(まぁ、最終的には安吾はあまり尊敬していなかったみたいだけど。ここが太宰と違うところだね。)「縁」とは不思議なもので、時代も立場もイメージも違うこの3人の作家は、しかしちゃんと繋がっている。その繋がりの素は、私の考えでは「笑い」とか「ナンセンス」ということになる。(Kさん、なつかしいね。「風博士」覚えているかな?)


ラブレーを生んだフランス、ヨーロッパと違って、日本の文学ではこの「笑い」ということをあまり真剣に考えない風潮がある。「笑い」を真剣に考えるというのは、それだけで矛盾していて「笑える」話だが、鱒二と安吾とアンナの3人は、そうした冷ややかな日本の文壇において、「笑い」を一種の武器として駆使した。
落語や狂歌・川柳など(今なら漫才・コントも含めて)、あれだけ「笑い」の文化を築いていながら、文学においてはその「笑い」を排斥しようとしてきたのだから、明治以降の近代化政策にはホントあきれざるを得ない。そうした潮流に反旗を翻し、「笑い」の価値を復権させたのが、彼らだった。


「笑い」には、その場の空気や沈潜したムード、おざなりなまとめや儀礼的な虚飾をぶちこわす破壊力がある。(最近の芸人には、残念ながら、そうした力がほとんどないが。)
話は変わるが、このあいだネットで立川談志の落語としゃべくりを見たけど、ホント痛快だった。あの人、やっぱスゴイ! ああいうのが、「笑い」の力だよ。もうボクシングの亀田なんてボロクソだもの。おまけにTBSもめった打ち。実に実にすばらしい!


学問的にそういう「笑い」の威力に真剣に取り組んだのは、山口昌男だった。山口昌男なんてもう古い、なんてよく言われるけど、やっぱ彼もスゴイ! 「道化やトリックスターなんてもうやめようよ」なんて言う輩で、彼の知識に追いついてる人が、今「どんだけ」いますか? いつになっても偉いものは偉いんです。「そーなんです」(これも古いか。)
彼の著作の参考文献一覧は、今見ても、圧巻で凄まじい。ただしご本人も自覚しているように、彼はあまり思想家とは見なされない。なぜなら、彼にはまじめぶった重みや渋みがないからだ。いや、そうなるのを封じているのだろう。とことん軽いのだ。そこが彼のいいところで、日本には希有な存在だと思う。


まじめくさったアカデミーなんて糞食らえだ。ホント大学教員なんてくだらない奴が多いよ。昨日もNKKで爆問の太田と京大の教授陣が「独創力」について議論する番組があったけど、教授陣は全然太田の発想に太刀打ちできていなかった。ある枠組みの外側からものを言う人間に対して、アカデミーは反論できないのだ。でもそういう人間こそが「独創力」を備えているんじゃないか、と太田は言いたいのだ。むしろ大学などのアカデミーは、そういう独創的な人間を排除し、潰してきたんじゃないのと詰問しているのだ。さぁ、京大の先生、どう答えます?


もう一度、言っておこう。既成の枠組みをぶっ壊すのが、「笑い」の力なのである。談志や太田が身につけているのは、その力だ。
私は談志も太田も知らない、「どんだけ〜」も「グーグー」も知らない、そんな知識人なんて信用したくない。学問を「笑い」と切りはなす学者なんて、たかがしれている。アカデミーを聖域に閉じようとする大学人なんて、それこそお笑い種なのだ。


荻野さんが得意な「ダジャレ」って、最近はオヤジギャグなんて言われて「さむい」「さむい」って嫌われるけど、これは一見まったく関係のないものを音とか色とかイメージなどで強引に結びつける、すごいテクニックなのだ。
「ネコが寝込んだ」、「布団が吹っ飛んだ」、「風博士が風邪ひいた」なんて、セマンティックな思考の中だけでは容易に作文できないでしょ。こういうの、大学の先生ももっと大事にすべきだと思う。


井伏の本については、結局、何も語っていないことに今、気がついた。
まぁ、いいだろう。語らないというのが、今の私の井伏文学についての評価だ。安吾の「笑い」とは、質もレベルも違いすぎる。

井伏鱒二 (新潮日本文学アルバム)

井伏鱒二 (新潮日本文学アルバム)