これ、な〜んだ?

katakoi20082008-04-14



新宿駅東口から紀伊国屋書店三越ジュンク堂の前を通り越して、15分ぐらい歩いていくと、模索舎http://www.mosakusha.com/)という小さな小さな本屋がある。木造小屋のレトロな感じの本屋だ。


私は紀伊国屋にもジュンク堂にもよく足を運ぶが、この小さな模索舎には、それら大型書店にはない、貴重なミニコミ誌や自費出版書籍が置いてあり、立ち読みしているだけでも実に楽しい。ついつい時を忘れてしまう。
私がこの間はじめて訪れたときは、店主らしき兄ちゃんと常連らしき兄ちゃんが、しきりにある映画の批評を述べ合っていた。それでおおよそ検討がついたのだが、店内にはその映画に絡む政治、文学、美術、サブカルチャーの類の本が取り揃えられているらしかった。思想と運動と芸術の三位一体。自分のお気に入りの本を並べているんだろうな。


冒頭に掲げた写真は、その時に購入したニシキハヤト『コドモタチノカオ』の1頁。発行部数400の私家版。定価950円。稀少な本だ。模索舎にはこんな本が所狭しと置いてあるのだ。
私はなぜか、昔からこの震えるような線描画がたまらなく好きで、『コドモタチノカオ』は、初山滋武井武雄、ビアズレーやパウル・クレーなどに通じる雰囲気をもっていると思う。


今週は模索舎とこの本を紹介したいと思い、こうして書き始めているのだが、その前に併読した小野田博一『13歳からの論理ノート』(PHPエディターズ・グループ)に触れておこう。
著者の小野田氏は、東京大学医学部大学院博士課程で単位を取得したのち、日本経済新聞社データバンク局に6年間勤務して、さらにJPCA(日本郵便チェス協会)の第21期日本チャンピオンに輝いたというんだから、まさに俊才。(私の神童ぶりとはえらい違いだ。)


私も仕事柄、論理学には関心がないわけではないのだが、入り口からして難しそうで、なかなか足を踏み入れる勇気を出せないでいた。そんな折り、近くの本屋でこのかわいらしい本を見つけた。論理学の入門書として、よくできていると思う。あまり抵抗なく、「論理」の世界に入って行けた。


私たちは普段、「論理的」に考えたり、発言したり、書いたりしていると思い込んでいるが、実はそうでもない。政治家の答弁や新聞の記事など、「非論理的」な場面を挙げればキリがない。(あとで述べるが、だから「いけない」と私は言いたいわけではない。)
本書の著者の言い方にならえば、「論理的」ということを「全然わかっていない人」がほとんどなのである。現に私もその「わかっていない人」の1人だった。そのことを痛感させられた実際の練習問題をあとでいくつか紹介したいと思うが、その前に件の「論理的」とは一体何か? ということを確認しておかねばならない。


著者は理由部分に「もっともな感じ」がある時、それを「論理的」と呼ぶと言う。もちろん、何を「もっとも」と感じるかは人それぞれだ。とすると、「論理的」とは受けとめる側の問題となってくる。
そう、そうなのだ。著者は「意見は読み手や聞き手にとって論理的であるようにしなければならない」のであって、「あなたにとって論理的である必要は必ずしもない」と言う。(ね、私たちは「論理的」ということを「わかっていない」でしょ?)


さてそこで問題。今回は「クイズ形式」で行こう!
(話が横道にそれるけど、最近、やたらとテレビのクイズ番組が多い。それもかなりつまらないものが多い。春の番組改編時なんて、どの局も番宣を兼ねた芸能人クイズ大会だった。それに比べたら、この論理問題は、結構、難しいよ。頑張って考えて下さい。こういうのテレビでやればいいのになぁ。あ、視聴率とれないか。以下、の下にがあるので、少しずつスクロールしてみて下さい。)

Q1 「ミルクを飲まないと大きくなれない。ゆえに、ミルクを飲むと大きくなれる。」この論理は正しい?



A. 正しくない。
「ミルクを飲まないと大きくなれない」というのは、「大きくなるには少なくともミルクを飲まないといけない」ということであって、「ミルクを飲んだからと言って、必ずしも全員が大きくなる」とは言えない。だから「ミルクを飲むと大きくなれる」とは言えない。大丈夫かな? わかるかな? 文字でわかりにくい人は図を描いてみるとよい。「ミルクを飲む人」という大きな紙袋の中には、「大きくなる人」と「大きくならない人」の2つの小さなビニール袋が入っているっていうことだよね。ハイ、これはまだ序の口。では、次!


Q2 「ミルクを飲まないと大きくなれない。大きくなれた。したがって、ミルクを飲んだのである。」この論理は正しい?



A. 正しい。
「ミルクを飲まないと大きくなれない」というのは、先にも書いたように、「ミルクを飲まず、大きくなれる人」はいないということ。今回は「大きくなれた」のだから、「ミルクを飲んだ」ということになる。


こちらの問題は間違える人が多いかも知れない。現実的には、ミルクを飲まずとも大きくなる人はたくさんいるので、その点から考えると混乱してしまう。でも、これを間違えた人は「論理的」ではない人なのだ。「論理的」とは、そういうことなのである。

この本、タイトルは『13際からの〜』となっているが、かなり難しい問題が紛れている。
悔しい人のために、ではもう1問。(こちらは少し形式の違う問題だよ。)


Q3 「Eメールのおかけで、日本人は、面と向かっての対話や議論などをほとんどしなくなった。それでなくても話下手で通る日本人が、面と向かってのディベート(debate=肯定・否定に分かれて行う討論)の機会を失った結果、ますます口下手の度合いを強めつつある。」
この文章はちょっと変、おかしい。どこが変か、指摘しなさい。
わかるかな? (ヒントは、正確な表現になっていないということ。4〜5箇所ぐらいあるよ。)



A. 答えは本書のP.112に載っているので、どこかで探して読んでみてほしい。(あんまりネタをばらすと、著者に怒られそうなので、この辺でやめときます。)


最後の問題からも察しがつくように、本書の後半は「論理的な文章」の書き方指南になっている。「論理的な文章」を書くのも、そう簡単ではない。
基本はレトリックや感情などを極力排して、正確な表現で意見・考えを述べること。その際に必ず理由・根拠を示すこと。著者に言わせると、1つのパラグラフに1つの理由というのが、理想らしい。


このように自分の意見や考えを正確に論理的に伝えるのは、本当に難しい。
ただし今回私が言いたいのは、「論理的に伝える」というのは、1つの手段であるということ。「論理的」に発言したり、書いたりできれば、それはそれで便利なことではあるが、それだけがよいわけではない。
現に本書が「論理的」には書かれていない。本書にはかわいらしいイラストがたくさん載っているし、文体だって「論理的」とは言い難い。


かつてマクルーハンは「メディアはメッセージだ」と言ったが、つまり「メッセージ」を「メディア」するには、実に様々な方法があり、そのこと自体がもう一つの「メッセージ」にもなっているということなのである。
だから感情を前面に出してブンガクすることもその1つだし、目次のようにコンテンツを並列させるのもその1つ。今回の「クイズ形式」(Q&A)も大事な「メディア」の1つであり、「メッセージ」なのである。


さてそれでは最後のクエスチョン。

Q4 冒頭の写真は、どんな時の顔を表したものか?



A. 「処置の途中 老いた女医の胸が見えて満更でもない時の顔」
え? 正解できるはずがないって? 
いや、でも言われてみると、なんとなくわかるでしょ? 少年の微妙で複雑な心境をよく捉えているでしょ? 「もっともな感じ」がするでしょ? (もしかして、これ「論理的」?)


『コドモタチノカオ』には、こんな具合にちょっぴり残念でがっかりしたり、寂しくなったり、ギクッとしてうしろめたくなったりするような、100人の「コドモタチ」の表情が実に見事に描かれている。そう、これも「メディア」の1つなのだ。


私が気に入ったのは、以下の顔たち。文字だけ抜粋しておこう。(どんな顔かは想像してみて下さい。)

○「とうもろこし」とあだ名を付けられた時の顔(セルジュ)
フォークダンスで手を繋いで貰えなかった時の顔(ダニエル)
○更衣室のドアの隙間から女の子の裸を見てしまった時の顔(ニコラス)
○初潮を迎えた時の顔(ナンシー)
○猫の交尾を目撃した時の顔(ルイス)

どれも秀逸。見ていて実に楽しい。

もし作者に会えることがあれば、状況から顔を描いたのか、それとも顔から先に描いたのか、ぜひとも訊いてみたい。


論理学の入門書とイラストだけの本、まったく性質の異なる2冊だが、どちらも「メディア」であることは間違いない。
いやいや、「メディアとは何か?」という質問を改めて浴びせられた読書となった。

13歳からの論理ノート

13歳からの論理ノート