男と女のあやうい関係


先週末は部活動の大会があり、出張申請やら自習プリントの作成やら何だかモタモタしているうちにブログの更新がずいぶんと遅れてしまった。一度タイミングをはずすと、なかなか挽回できないね。いかん、いかん。


それにしても最近は気の抜けたサイダーみたいな学生が多くて、部活の引率をしていても、普段の授業をしていても、実につまらない。何とも張り合いがないのだ。
今の学生たちは試合で負けても悔しさを前面には出さない。そういう意味では、端から戦いを放棄しているのだ。


このような「戦わない少年たち」が現れたのは、しかし今にはじまったことではないらしい。どうも1970年代あたりから徐々に進行しつつあったようだ。(前回のブログとも重なってくるね。つまり若者を中心とした60年代のカウンター・カルチャーは70年代でついに失効したということだ。)
72〜73年は公害問題、ドルショック、連合赤軍事件、ベトナム戦争の泥沼化など、行き詰まりや自己矛盾を感じさせる世相であった。こう書いていて思い出したが、三島が市ヶ谷で割腹自殺をしたのは、きっかり1970年のことであった。


この前観た若松孝二の「実録・連合赤軍」は、自己矛盾を感じつつもそのまま強引に突っ走ることしかできなかった若者たちを実にわかりやすく映像化していた。あそこに映し出されていたのは、自らの戦いを見失った勇気のない若者たちの姿であった。
あの事件以降、男たちは戦う相手と根拠を完全に見失った。その一方で今さら戦ってもしょうがない、楽しく行こうぜというムードが漂った。


「○○のためなら死ねる」の「○○」に何を入れるか?
40年代前半なら、そこには「国」や「天皇」が入ったのだろう。また戦後なら「会社」や「革命」や「家族」が入ったのだろう。
しかしそれらに命をかけるのが難しくなった80年代、男たちは「○○」に「彼女」を代入した。その成り行きをまんがやアニメを材料にわかりやすく提示してくれたのが、ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史講談社現代新書)だ。


80年代を代表する人気まんが家のひとり、あだち充は「タッチ」で「女のために野球をやる」主人公を描いた。ポーカーフェイスな主人公は「本気」と「戯れ」の間を揺れながら生き、その屈折した関係を描き手たちは「パロディ」という手法で強引に押し切っていった。


そうした趨勢のなかで育まれていったのが「美少女」というキャラクターだった。
ササキバラは80年代に「美少女」は商品として開花したと言う。そのハシリ、記念碑的な作品とも言えるのが、宮崎駿が監督を務めたアニメ「ルパン三世カリオストロの城」(79年公開)だ(偶然だけど、今度テレビでやるみたいだね)。「カリオストロ」のクラリスは、ルパンにとって、男の価値を裏付けてくれる絶対的な姫として登場する。そしてクラリスのような「美少女」は、70年代以降、「価値」や「目的」を見失った男たちにとって、自分自身に意味を与えてくれる恋愛の対象となっていった。
しかし一方で、男たちはやがて自らを「彼女を傷つけてしまうマッチョな性的存在」と意識しはじめる。ルパンが最終的にクラリスと距離をおくように、70年代の男たちは彼女の内面を決して傷つけたりするような行為には及ばない。


こうして「美少女」は、傷つきやすいがゆえに絶対的な存在として男たちの前に出現し、しだいにどんな敵でもやっつけてしまう最強のキャラクターへと変貌していく。「美少女」とは、傷つきやすさを身にまといながら、それゆえに決して傷つかないキャラクターのことだ。このことは高橋留美子うる星やつら」のラムちゃんが、あのきわどいビキニ姿で見事に体現しているし、その後、数多く産出された戦闘美少女の系譜が物語ってもいる。


宮崎駿のアニメでは「執拗なまでに少女の姿が描き込まれる」とは、しばしば指摘されることだが、「風の谷のナウシカ」以降、ヒロインは神々しいまでの戦う女の子になっていく。80年代のアニメは、この「戦いはじめる女の子」と「戦わなくなっていく少年」に二分される。(今ふと思い出したが、先日観たヘンリーダーガーの映画も7人の戦う少女・ヴィヴィアンガールズが活躍する物語だった。)
言うまでもなく、前者を牽引していったのが宮崎駿だったとすれば、後者の方は「機動戦士ガンダム」の冨野由悠季であった。「機動戦士ガンダム」では戦うことに戸惑う少年アムロが描かれ、その後その流れは庵野秀明の「新世紀エヴァンゲリオン」にまで引き継がれていく。(庵野はさすがに宮崎の流れも巧みにとりこんでいるが。)


私自身は文学における「美少女」の変遷史みたいなことに関心があるのだが、ササキバラはその辺りもぬかりなく、79年にデビューを果たした村上春樹の文学をちゃんととりあげている。彼は村上の小説に自身の「暴力性」に目覚め、能動的に行動するための根拠を見失っている主人公を指摘する。蓋し卓見であろう。


本書ではその後、士郎正宗などを例に再び「エッチなボディ」をもちはじめる90年代の「美少女」たちが考察されているが、前半に比べ、この後半部分はやや分析が鈍くなっているように思われる。まあ、90年代から2000年にかけては、まだまだ今後の課題といったところだろう。


ササキバラと並行して、たまたま床屋の待ち時間に読んだのが、古屋兎丸乙一『少年少女漂流記』集英社)だった。本書ではタイトルにあるように様々な少年少女たちが、生きにくいこの現代を漂流する様子が描かれる。しかしそのどれもが自らの妄想の世界に閉じこもり、決して現実と戦おうとはしない。


作者の古屋と乙一は、「あとがき」の対談でそうした若者たちの傾向を「中二病」と呼んでいる。「満たされない思いを妄想で補っている」、自意識過剰なイタイ感じをそう言うらしいのだが、驚いたことに、二人は「大丈夫です。それでいいんです」というメッセージを少年少女たちに言ってあげたかったと白状する。


本書を読んでまったく心を動かされなかったのは、ここにある。
ここにはまったく戦いがない。それはある意味、私が冒頭に書いたように現代の若者たちの姿を如実に反映しているとは思う。しかし果たして、本当にそれでいいんだろうか。大丈夫なんだろうか。


私はやはり「戦い」のないところに「感動」は生まれないと思う。問題はどうやって戦う勇気を奮い立たせるか、ということではないのか。それが芸術ではないのかなぁ。
今は現実の世界でも戦っているのは、あきらかに女の子の方だね。

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

少年少女漂流記

少年少女漂流記