追憶アラカルト

野口雨情の「雨降りお月さん」ではないが、ここのところこちらでは寂しい雨が降っている。
今朝も春にしては冷たい雨だ。


そんなもの悲しい気分を抱えながら、今週は『日本の童謡 白秋、八十、そしてまど・みちお金子みすゞ神奈川近代文学館)を取り上げようと思う。これは2005年秋、神奈川近代文学館で行われた展覧会の図録である。
それこそ雨情の「ひとりで傘(からかさ)さしてゆく」ではないが、先週の連休中、霧雨の降りそぼるなか一人で出かけた「澁澤龍彦回顧展」の際に同館で買い求めた。


私は絵と文が一緒になったこの〈図録〉というものが大好きで、ミュージアムに行くと、多少高くともついつい買ってしまうのだ。
これは子どもの時からの性癖で、私はずいぶんと幼い時から絵を見るのも描くのもどちらも好きだった。町の公民館などに優秀作としてよく貼り出され、母親と妹と3人で見に行ったものだ。


1918(大正7)年7月、鈴木三重吉は長女すずの誕生を機に雑誌『赤い鳥』を創刊した。
『日本の童謡 白秋、八十、そしてまど・みちお金子みすゞ』には、その『赤い鳥』を軸に題名にある通り、日本の童謡を牽引した4人の作家が順次紹介されている。初山滋恩地孝四郎武井武雄安野光雅など、童画家の絵もふんだんに掲載されていて、眺めているだけでも実に楽しい本だ。本当にワクワクしてしまう。


で、肝心の作家の方だが、明治44年、幼少年期の感覚的記憶を素材にすでに詩集『思ひ出』を刊行していた白秋は、明治期の学校唱歌への反発もあり、三重吉の『赤い鳥』に積極的に参画し、膨大な童謡を書き続けた。
白秋の詩や短歌から童謡へと至る道行きについては、本書を手掛かりにもう少し深く掘り下げてみたい気がする。(これ新たな宿題にしようっと。)


その白秋を日本童謡の父とすれば、西條八十はその母であった。裕福な家庭に育ち、のちに象徴派の詩人として出発する八十は、泉鏡花を愛読していた姉の影響で文学への興味を抱いたという。
彼はソルボンヌ大学に留学するほどアルチュール・ランボオの研究に没頭したが、そのかたわら常に「見えざる母への思慕の念」を抱き続け、『赤い鳥』にも数多くの童謡を発表した。なかでも1918年11月に発表された童謡第2作「かなりや」は、成田為三の作曲で人口に膾炙するところとなった。(ちなみに「唄を忘れた金糸雀」とは、詩の世界から離れていた当時の自分の心情をうたっているらしい。)


続く金子みすゞは、その八十に「若き童謡詩人の巨星」と称され、見出された。
私は本書を読んではじめてその不遇な境涯を知り、なんだか妙に動揺してしまった。八十はその辺り、彼女の面影をクリスティーナ・ロセッティになぞらえて説明している。クリスティーナは、死への瞑想的な思いをひそめた宗教詩で知られた詩人、人間の暗部を描くことをモティーフとした、あのラファエル前派の画家、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹である。(凄い兄妹だなぁ。)


八十が追想しているように、みすゞにはいつもどこか死の影がつきまとっている。本書には、娘のおしゃべりを南京玉(ビーズ)をつなぐように書き写したと言う『南京玉』の写真とともに、自死の前日に撮られた肖像写真も載っていて、何だかギョッとしてしまう。
うちにはちょうど当時のみすゞの娘と同じ年頃の息子がいるのだが、彼は何度教えてもまだ「テレビ」を「テベリ」、「たんぽぽ」を「タンポコ」、「力持ち」を「チカモラチ」、「ヘリコプター」を「ヘコポルター」としか発音できない。でもそれが何とも可愛くて思わずギュッと抱きしめたくなる。
みすゞが綴っている『南京集』も娘のそんな可愛い言葉を拾い集めたものだ。幼い無邪気な子を残して自殺する母親の心境って、いったい全体、どんなものなのか。想像するだに恐ろしい。


最後のまど・みちおは、白秋の最晩年の弟子で日本人初、国際アンデルセン賞を受賞した童謡詩人である。御年99。まだまだ頑張ってほしい人だ。
まどの名前を知らなくても、彼が作詞した「ぞうさん」を知らない人はほとんどあるまい。「ぞうさんぞうさん、おはながながいのね。そうよ、かあさんもながいのよ」の、あの「ぞうさん」だ。まどには他にも「やぎさん ゆうびん」、「一ねんせいになったら」、「ふしぎなポケット」など、数多くの作詞を手がけている。どれもこれも私が子どもの頃、母親とうたっていた、なつかしい歌ばかりだ。(それが今や我が息子が歌っているんだから、なんだか不思議な感じだな。もっとも先に紹介したように、あまり優秀ではない(?)愚息の鼻歌は、横で聴いていると「♪しろやぎさんから……お手紙、食べた」ですぐに終わってしまう! 息子よ、くろやぎさんはどこへ行った? 少なくとも1回はお手紙をやりとりしようよ。)


恥ずかしながら、これも本書で初めて知ったのだが、まどは作詞ばかりでなく、一時期は絵も描いていたようで、その絵がなんともいい。抽象画なのだが、色といい、構図といい、絶妙である。「ぞう」の絵なんて、一生、忘れられないゾ。ぜひぜひどこかで見るべし。


それにしても、こうした童謡や童画への愛着って、一体何だろうか。子どもの時だけでなく、大人になってからもその愛情は冷めることがない。いや、むしろその熱は大人になってからの方が強まっているのではないだろうか。もはやとりかえしのつかない過ぎ去った日々への追憶が、かえって人々にそういう思いを強くさせるのだろうか。それとも単に自分が親になっからだろうか。


本書と並行して、電車の中やレストランでつまみ食いをするようにして読んだのが、谷川渥『廃墟の美学』集英社新書)だ。こちらも写真や絵画など、ヴィジュアル資料が充実していて実に素晴らしい。
谷川の本はどれもこれも出来がよくて、カッコイイ。どれをとっても、まず間違いがない。本書と同じテーマを扱った本としては、谷川が編者となった『廃墟大全』があるが、これなども巽孝之小谷真理種村季弘四方田犬彦中野美代子など、錚々たるメンバーを執筆陣に配し、見事にまとめ上げている。幻の名著(!)と誉れ高かった所以だが、「ならば新書でもっと読みやすく」と谷川一人本書の執筆を進めていたところ、同時期に文庫化の話が持ち上がり、今では『廃墟大全』の方も中公文庫で入手可能となった由である。


『廃墟の美学』は、「建築体験」という言葉を使いながら「住みよい」と「住み心地よい」を区別し、「住み心地よい」建築の実現を目指した詩人、建築家でもあった立原道造の「方法論」の紹介からはじまる。(この入り方も絶妙だなぁ。)本書も新書とはいえ、さすがによく行き届いた絶好の廃墟学入門になっている。
何を隠そう、私が本書を手にしたのも、その基本中の基本「マニエリスム」や「奇想(カプリッチョ)」、「ピクチャレスク」といった概念の定義を確認したかったからである。本書はその期待に見事に応えてくれた。


たとえば「マニエリスム」については、グスタフ・ルネ・ホッケの名著『迷宮としての世界』を紹介しつつ、「ローマ劫掠(1527年)に象徴されるルネサンスの終焉からバロックの隆盛にいたるまでの」、「近代的(モダン)」という言葉がはじめて意識的に用いられ、「没落のヴィジョン」にさいなまれていた時代にあって、たんに精神の危機にとどまるのではなく、「歴史の継ぎ目から脱落した世界を意識化すること、ある画時代的な危機意識を意識化すること」と説明される。また「奇想(カプリッチョ)」については、「もともと自然模倣を基本としながらも、それらを自由に組み合わせること、あるいはそうして出来上がった所産」を意味すると言う。実に簡にして要を得た解説だ。


だから分裂症的な破局の画家モンス・デジデリオや野菜や果物の組み合わせで人の顔を形象化したジュゼッペ・アルチンボルドなどの絵は、まさに〈マニエリスム的な奇想〉と言えるわけだ(が、こうしてまとめてみると、これはもう現代の状況とほとんど変わらないことに気づく!)。
これらの些かひねくれた感覚は、そのまま「ピクチャレスク」という言葉にも被さっていく。「ピクチャレスク」とは、もともと「絵にふさわしい」という意味であったのが、とりわけグランド・ツアーを経験した18世紀中頃のイギリスでは絵と自然の関係が徐々に逆転し、「絵のような」自然への美意識を言うようになる(わかるかな?)。そうしてウィリアム・ギルピンは、「ピクチャレスクな美」には「粗さ」や「ぎざぎざごつごつしていること」が相応しいとし、ここに静態としての廃墟がそのモティーフとして浮上してくることになる。18世紀においては、「絵は庭のごとく」と「庭は絵のごとく」は区別され得ず、こうしてひとつの大いなる円環が閉じられる。
(この辺り、ピーター・グリーナウェイの映画「英国式庭園殺人事件」と絡めて考えたいところだが、時間も枚数もだいぶ過ぎているので、今回は割愛しよう。)


最後に谷川が紹介している建築家ジョン・ソーンについて、少しだけ触れておこう。25才でグランド・ツアーに旅立った彼は、古代建築や古代彫刻の美に目覚め、その断片を集め、自邸をそのまま博物館にしてしまった。失われし古を断片の美に求め、それを丹念に収集し、分類していく過程は、そのままミュージアムの歴史と重なる。
書籍だけでも8,000冊というソーン・ミュージアムは、「もうお腹いっぱい」と言いたくなるぐらいの超贅沢な博物館らしいのだが(写真でもそう見える)、それがなんと本場イギリスでは誰もがただで見られると言うんだから、これはもうあまりにレベルが違いすぎる。参りましたっ。(でもでもこれが本当の文化だよねぇ。)


今回のテーマについては、もっともっとメモしておきたいことがあるのだが、どうにも収束がつかなくなってきたので、尻切れトンボだが、この辺で終わるとしよう。
今週は好きなことなのに、書き出してみると、実に実に生みの苦しみだった。これはいったい、どういう訳だろう。
手に入れたいけど、なかなか掴むことのできないもどかしさ。これこそノスタルジーというものだろうか。


そう言えば、この間の日曜は母の日だったな。


廃墟の美学 (集英社新書)

廃墟の美学 (集英社新書)