ウソのようなホントの話

今回はウソのようなホントの話。
そうだなぁ、パッと扉を開けて次の部屋に行こうとしたら、また同じ部屋に出てしまったような感覚といったらいいだろうか。それとも難しい数学の方程式を解いていたら、その解は実になじみ深いものだったという驚愕といったらいいだろうか。


具体的な話に移ろう。
先日の松岡講演の際に、ある地下鉄駅の近くで小さな画廊を見つけた話は、このブログでも触れたと思うが(そのお店に貼られていたポスターで、前回ケータイから報告した「澁澤龍彦回顧展」を知ったのだった)、今日はそのお店で購入した本を紹介したいと思う。
あ、ちなみにギャラリーの名は、スパンアートギャラリー(http://www.span-art.co.jp/)と言って、地下鉄銀座駅・JR有楽町の駅近くにある(私は最近、歩くのが好きなので東京駅からだと歩いてしまうが)。


そのお店の書籍コーナーで、たまたま目にとまって買った本が西岡兄妹『人殺しの女の子の話』青林工藝舎)である。この本は薄っぺらな童話なのだが、タイトルにあるようにとても残酷で悲しいお話になっている。でもどこか乾いた感じがあり、全然湿っぽくはない。
小川未明にしろ、浜田廣介にしろ、童話って何かしら悲しみを抱えているもんだと思う。いや、悲しみのない童話なんて童話じゃない。これは外国でも同じで、坂口安吾がエッセイ「文学のふるさと」でとりあげたように、シャルル・ペローの「赤ずきん」も本当は可憐な赤ずきんがお婆さんに化けた狼にムシャムシャ食われてオシマイなのだ。猟師が来て、寝ている狼のお腹を切り裂き、赤ずきんを助け出すなんていう話は、ハッピーエンドにするため、ムリヤリ後から付け足された結末にすぎない。(こういうことをやって大成功をおさめて大儲けしたのが、ウォールト・ディズニーだ。童話が悲しみを失い、単なるメルヘンになり、子供相手の商売道具になってしまった。)


私は西岡兄妹という作家をまったく知らなかったが、どうやら私好みのもともとの童話の世界をちゃんとわきまえているアーティストらしい。ネットで調べてみると、西岡兄妹は本当に兄妹のようで、兄がストーリーを考え、妹がそれを絵にするというロール分業になっているようだ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%85%84%E5%A6%B9)。


話は、次の文章から唐突にはじまる。

人を殺したい
女の子はそう思いました
理由はありませんでした

この唐突さが実にいい。まさに童話の真髄であり、と同時に現代社会に通じるものがある。


『人殺しの女の子の話』は、こうして左頁に兄の文、右頁に妹の絵という形で進んでいく。私はスパンアートギャラリーで、パラパラと頁を繰って、妹の絵に惚れ込んでしまったのだった。異国風のなんとも不思議な印象を感じさせる。この絵だけを見て、左側の文を考えるというのもきっと面白いと思う。
ということで、今回はお話の方は伏せておこう。まだこの本を読まれていない方はぜひお試しあれ。(私は今度、自分の息子や教え子たちにそんなことをやらせてみたいと思っている。)それで今、絵を見返していたら、主人公の女の子が赤いずきんをかぶって家を逃げ出すシーンがちゃんと出てくるね。ペローの「赤ずきん」がひそかに隠れていたとは。いやいや後半の「天国も地獄もありはしないわ、生活、生活、生活、あるのはそれだけよ」なんていうヒロインの台詞は、これはもう安吾だね。まいりましたっ。


私はこの本を読んでいて、一方でなぜか「不思議の国のアリス」のことを思い出した。
それで以前に恵文社から取り寄せてまだ積ん読状態だった『キャロル考現学またはアリスをめぐる幻想』(さわらび本工房)という本をひっぱりだして見た。
この本は画家や漫画家、写真家、人形作家ら総勢26名のアーティストが、こぞってアリスという一人の少女をモチーフに作品をつくり、それを巨大なトランプの形式で1枚1枚カードにし、箱に収めた一風変わった画集である。


なかでも私のお気に入りは、上田風子の「Door」、大友ヨーコの「アリスの箱」、桑原弘明の「ALICE」、ナイジャル・ハリスの「Transfomation of Alice in Looking-glass world(鏡の世界によるアリス変換の図)」、山本タカトの「アリスの扉」あたり。
これらの作品を眺めていると、ルイス・キャロルこと、オックスフォード大学の数学講師チャールズ・ドジソンのアリス・リデルに対するちょっぴり異常な情愛と彼の秘密の世界の一端を感じられる。


本書に付された谷川渥の解説「乱反射するアリス」によると、キャロルはお気に入りの少女たちを写真におさめ、できあがった写真をプレゼントするのを喜びとしていたようだが、写真の現像とはモデルの生きる時間を一瞬止め(ということは一瞬殺し)、ネガをポジに反転させる営みのことだ。そしてそのカラクリはキャロルの「アリス」では、右と左、上と下、前と後、実像と虚像、光と影、現実と夢、意識と無意識……といった二元性、〈対〉として形象化される。


先に名前を挙げたアーティストたちの作品に「Door」や「扉」、「箱」などといったタイトルが多いのもこの〈対〉としての二元性が関わっていると思う。これらのモチーフはこちらの世界からあちらの世界に通じる通路であり、もっと言えば、生と死の境目そのものである。また彼らがキャロルの「アリス」から新たに紡ぎ出す物語は、一が全体に繋がっていく断片(フラグメント)の集積でもある(だから本書は自体がカード形式になっているのだ)。大友ヨーコの「アリスの箱」は世界を閉じこめた小さな箱(キャビネット)であり、桑原弘明の「ALICE」は世界を封じ込めたBookそのものになっている。(しかも桑原のオブジェとしての本は、表紙をめくると、扉が出てくる仕掛けになっている!)
本書は一にして多、多にして一の世界のオンパレードだ。これが扉を開けて別の部屋に行こうとしたら、また同じ場所に出てしまった時のようなあの不思議な感覚の根源である。


それで冒頭に予告した「ウソのようなホントの話」。
この『キャロル考現学またはアリスをめぐる幻想』という本は、昨年、宇野亜喜良をキュレーターとして行われた展覧会をもとに作成された図録だったのだ。そして何を隠そう、その展覧会が行われた場所こそ、私が偶然見つけたあのスパンアートギャラリーだったのである。スパンアートギャラリーは、私が敬愛する評論家・種村季弘氏のご子息、種村品麻さんが経営するギャラリーだった。そりゃスゴイはずだわ。


私は自分の興味関心で好きな絵を見たり、好きな本を読んだり、好きな人の講演を聴きに行ったり、無節操に町中を歩き回っているのだが、どうやら私の好きな世界は裏で一つに繋がっているようだ。
スパンアートギャラリーが澁澤を招き、西岡兄妹がアリスを招き、そのアリスが種村のスパンアートギャラリーに繋がっていく。どうやら私はいつのまにか巨大な迷宮に彷徨い込んでいるらしい。


さて次はどの扉を開けて進もうか。


人殺しの女の子の話

人殺しの女の子の話