SMとPM


最近は日本でも、大学などは8〜9月を夏休みとしているところが多い。
アホか! このクソ暑いのに。


情けないことに本校もその流れに逆らえず、昨日まで授業があった。
さすがにこの時期の授業はきつい。「がんばろう」と思っても、身体がついていかない。


こんなバカな制度を流行らせたのは、いったいどこの何奴だろう。
日本の気候風土には合わないし、省エネの観点からも矛盾する。
あのねぇ、暑いから夏休みって言うんじゃないの? 夏真っ盛りの8月上旬までエアコンをガンガン入れて授業して、涼しくなりはじめる9月をまるまる休みにするなんて狂気の沙汰ですよ。


今、日本は上層部にいる連中が本当にバカでどうしようもない。
それはたぶん国や県レベルの組織でも、民間の会社でも、学校でも同じだろう。


あっ、夏休みをずらすのは、もしかして大学生にもガマン強さを身につけさせようという政策なんだろうか。


まぁ、そんなこんなで巻き返すつもりのブログ更新もまたまた遅れてしまった。


先週は、鹿島茂『SとM』幻冬舎新書)を読んだ。
鹿島氏は今年度から高山宏氏とともに明治大学の新設学部にうつり、大いに気炎を吐いているところだ。(石原某というやっぱりバカな役人のせいで首都大は逸材を逃したね。)


私は個人的ないきさつから鹿島氏のことはあまり好きになれないのだが、「語り下ろし」で綴られたという本書は、200頁足らずの薄い本でありながら、とても刺激的でインスパイアされるところが多かった。


最初に教科書的なことを言っておくと、SMは、ドイツの精神医学者・クラフト=エビングが、1886年マルキ・ド・サドの小説の中に加虐的な欲望を見出し、これに〈サディスム〉という症例名を与えた。
ついでサディスムに対応する被虐的な欲望の持ち主の作家を探したところ、幸いなことに(?)オーストリアのザッヘル・マゾッホが見つかったので、〈マゾヒスム〉という用語を作ったとされる。


もちろんこれに間違いはないのだろうが、鹿島はSMの源はもっと古く、キリスト教文化そのものにあると言う。
その証拠にコンスタンティヌス帝の頃はそうでもなかったキリスト磔刑図が、カール帝の頃になってくると、その残酷度を増してくると言うのだ。(それはヨーロッパを旅行した横光利一が「これが宗教画なのか」と驚いたくらいだったらしい。ほとんどスプラッター絵画だったんだろうね。)


なぜヨーロッパ人は、そこまで残虐にキリストの姿を描くのか。
そこにはサクリファイスの思想がある。この点については、ジョルジュ・バタイユが述べていて、一人一人バラバラな生を生きている個体は、サクリファイスの儀式において、自分たちをどこかで連続的につないでくれる見えざる存在、つまり神や聖なるものを垣間見ることができるのである。(ここら辺、前に書いた「崇高」の概念とも繋がってくるところだね。覚えているかな?)


どうやら人は恐怖の体験を目の当たりにすると、共同体の意識が強烈に働くようにできているらしいんだな。そのことは例えば、最近も中学生が起こしたが、ハイジャック事件などを想定してみれば、わかりやすいだろう。あんまりいい例ではないけれど……。


以上のようなことから、鹿島はキリスト教徒は全員がMだと断定する。
そもそもMとは、失われた絶対者へのノスタルジーなのだ。そしてキリスト教においては、MはSに先行したのである。
ではSはどのようにして生まれたのか? ここに先のサドが関係してくるというわけだ。(ちなみにサドを日本に翻訳・紹介したのは、澁澤龍彦である。やっぱり、偉いね。)


サドの発想は「Mであるキリスト教徒を懲らしめるために、人間であるところのオレさまが、神さまに代わって鞭をふるってやる」というものだ。
鹿島はここにサドの「アンチ・クリスト宣言」を見るとともに、「近代の目覚め」を指摘する。


ここが鹿島のスゴイところだけど、SMの話がいつのまにか歴史の話にすり替わっていく。
彼は「自我」というものをパイのポーション(部分)にたとえ、次のように整理している。

・中世(キリスト教と共同体に自我パイのポーションを委ねる時代)
・近代(自我パイのすべてを自分のものにしたがる時代……Sの誕生)
・民主主義(ふたたび共同体に自我パイのポーションを少し委ねる時代……Mの誕生)


「話し合い」が必要になってくる「民主主義」においては、「おままごとボーイ」的なM男が誕生してくる。そこでマゾッホの登場ということになる。ここの整理は見事だ。


鹿島は、このあと日本の文化とSMについて語っているが、だいたいの要点はもう綴ったので、これ以上のところは省略しよう。
ただ一言だけメモしておくなら、日本のSM文化について語るなら、『源氏物語』と少女マンガ、谷崎潤一郎団鬼六ははずせないということだ。ヨーロッパは「鞭」で、日本は「縄」だということだ。


さて本書と並行して読んだのが、ペロー原作/サラ・ムーン写真赤ずきん西村書店)である。
この本は、有名なペローの童話「赤ずきん」に、サラ・ムーンが写真を添えて新たに編み直したものだ。


私は女性フォトグラファーであるサラ・ムーンを本書ではじめて知ったのだが、彼女はいつもボラネガという傷つきやすく、耐久性もないフィルムを使うのだそうだ。
そのフラジャイルな感覚が、かえって彼女の写真の魅力になっていて、可憐な赤ずきんのか弱さが、よく写し出されている。


赤ずきん」という物語をサラ・ムーンの写真とともに読み直してみると、鹿島の『SとM』を読んだせいもあるだろうが、あらためてこの物語の残虐性が気になった。
ペローの原話では、赤ずきんはオオカミに食べられておしまいなのである。


本書では、その「赤ずきん」が現代版にアレンジされているものの、やはり結末は救われない。
そして何と言っても、秀逸なのは、サラ・ムーンが最後の最後に寝乱れたベッドのシーツを写真におさめていることだ。彼女は明らかに女の目線から「赤ずきん」にエロティシズムを持ち込んでいる。


果たしてこの物語は、Sなのか? Mなのか? どっちだろう。


えっ、お前はどうなのかって?
うーん、私はどっちかって言うと、Sだろうな。封筒なんかは丁寧にハサミで開封するタイプだからね。


いやいや、SはサービスのSでもあるんですよ。


SとM (幻冬舎新書)

SとM (幻冬舎新書)