キャラクターの「たましひ」

人の絵姿を「影」(えい)または「御影」というのは、そこに身体から遊離した「たましひ」の所在を認めたからであろう。
――山本健吉『いのちとかたち』


紙片を埋め尽くし、ノートにびっしりと書き込まれた南方熊楠の文字にいたく感動したことがある。そう言えば、夏目漱石のノートも同じように書かれていて、驚嘆した。
これは断じて当時の紙が貴重で、もったいなかったからできるかぎり節約して使おうという魂胆ではあるまい。
それは与えられたスペースをこれでもかという細かい文字や記号、絵で埋め尽くしたいという単純な欲望の証左であり、ある種の知識人たちを襲う病である。
熊楠のそうしたメモランダムに接し、心ふるえたのは、そこに確かに熊楠というキャラクターの「たましひ」を感じたからである。


今年7月から9月にかけて、21_21 DESIGN SIGHTで「祈りの痕跡。」展が開かれていた。そのことはこのブログでも紹介したかと思うが(浅葉克己松岡正剛の例の記念対談が行われた展覧会だ)、その際に限定販売されたカタログが『魂跡抄』(21_21 DESIGN SIGHT発行)である。
このカタログについては、いつかとりあげたいと思いながら、随分と時間が経ってしまった。


さてその『魂跡抄』は見開き2ページが1対になっていて、左右それぞれにアーティストや作家、学者のノートやメモ、日記の類の「痕跡」が掲載されている。どのページを開いても実に面白い。(ちゃんと南方熊楠のヒメシバの着彩図譜も載っている!)さすが松岡正剛の編集ディレクションだ。
左頁の片隅には、文字による短い章句が記されていて、冒頭に引用した山本健吉の言葉はそこで紹介されていたものだ。


『魂跡抄』の扉には「痕跡」とは「ある時ある所でふと残された消息である。しかし、その痕跡には必ずや魂跡が去来する」とある。先の熊楠や漱石ではないが、特に手書きで残された「痕跡」には「魂跡」が宿るように思う。


本書でとりあげられているもののなかで、とりわけ私が魅了されたのは、(1)ロランバルトのペン画(これはもう西洋の書道と言ってよい。さすがエクリチュールの研究家だ)、それに(2)エリック・サティの楽譜(シュザンヌ・ヴァラドンに捧げたという歌曲には、音符とともに女性の似顔絵が描かれている。そうか、これも音楽か)、それから(3)ヨハン・ヴォルフガング・ファン・ゲーテの形態学のためのスケッチゲーテって、単なる文学者じゃないんだよね)、そしてそのゲーテを研究した神秘思想家(4)ルドルフ・シュタイナーの黒板絵「植物の誕生」(シュタイナーは黒板に絵を描きながら、何千回という講演を行ったらしい)。
いやいや、やっぱりこれだけじゃおさまらない。本当にどれもこれも素晴らしい「痕跡」で「魂跡」なのだ。


これらのアートを見て思うのは、鴎外にしろ、アインシュタインにしろ、一流の作家や学者や編集者は皆、文字や絵がすごくうまいということ。今、私たちはこれらに匹敵する文字や絵を書(描)いているだろうか。いやそれは無理な話だとしても、そもそもそうしたことを意識さえしていないのではないだろうか。
私たちはもっと自らの手や身体を動かし、時には絵も描いてみるべきなのだろう。メールの硬く乾いた文字よりも手で書いた(まさに!)手紙の方が「たましひ」を込められるし、受け取る側もそれを感じられるはずだ。私はそんなコミュニケーション(と言うよりは交信)を大切にしたいと思う。


遅ればせながら、『魂跡抄』をとりあげたのは、白川静監修・山本史也著『神さまがくれた漢字たち』理論社)を読んだからである。例の〈よりみちパン!セ〉シリーズの1冊だ。
この本の冒頭に中国の蒼頡(そうけつ)の話が紹介されている。蒼頡は両眼にそれぞれ2つの瞳、あわせて4つの瞳をもつ男で、彼は鳥と獣の足跡を見つめ続け、そこに自然の規律を発見し、漢字を作ったとされる人物である。
もうお気づきだろう。そう、そうなのだ。われわれが使う漢字そのものが、すでに「痕跡」であり、「魂跡」であったということだ。


本書の著者山本史也は、大阪の国語の教諭で、白川静の最後の薫陶を受けた人であるらしい。だから本書は、弟子による白川漢字学の入門書という体裁で、難解な白川の学説がわかりやすく解説されている。


中国の最初の文字である「甲骨文字」は、動物の骨や亀の甲羅に刻まれることが多かったが、これは白川によると、王が神に告げ、神に尋ね、神に訴える占いのための文字で、いわば王と神との交信の道具であったと言う。ここが白川漢字学の原点となる。


白川はさらに許慎の『説文解字』の解説を検証し、次々と間違いを正していく。その説は時に激しく、時に残酷な様相を呈する。
たとえば「民」という文字は、大きい矢か針で目を突き刺す形で、殷王朝が異族を捕らえたときの処罰を示す文字。「臣」や「賢」も同様の成り立ちで、なんと「童」も「目」の上に入れ墨をほどこされ、刑に処せられ、僕の身分に落とされた者を指すと言う。(「童話」や「童心」という、汚れのない、純潔なイメージの熟語とはあまりにかけ離れていて、驚かされる。)


本書にはそうした意外な漢字の「物語」がいくつも紹介されている。なかでも「へぇ〜」と思わされたのが「文」という字の「物語」だ。
後漢書』や『魏書(三国志)』には、「文身」という用例がある。これは胸に入れられた「入れ墨」という意味で、だから「文」はもともと身体を清めるために施す図柄や模様を指していう語であった。(そのニュアンスは「縄文時代」という時の「文」にとどまっている。)
ふつう「文身」は出生の時と亡くなった時に施されるのだが、非業の死を遂げ、慰められない霊の魂を封じ込める時には、「×」印の「文身」がその胸に刻まれる。それが「凶」という字になり、「胸」という字を作った。


本書はこんなふうに白川漢字学をもとに、漢字の背後に隠れた「物語」(それも結構凄絶でインパクトのある「物語」)を教えてくれる。
パソコン・ケータイ世代の今の学生たちは本当に漢字が書けなくなっているが、こんな「物語」を知ったら、少しは漢字に興味を持ってくれるだろうか。
いや、そうだなぁ、知識も大事だけれど、やっぱり自分の手で書いてみることがもっと大切だろうね。夏休みあけの学生の会話を聞いていると、「あー久しぶりにシャーペン持った!」だもんね。ホント参っちゃうよ。


私たちはもう一度「文」の原初に帰るべきなのかもしれない。
白川静も最初から漢字の「物語」が読み解けたわけではない。何千、何万、何十万という文字をトレースしたからこそ、その背後に隠された「物語」が見えてきたのだ。


『魂跡抄』にはさすが白川静の青銅器銘文の図像トレース集がちゃんと収められている。
そこにはやはり古の人々ともに、白川の「たましひ」が感じられる。


神さまがくれた漢字たち (よりみちパン!セ)

神さまがくれた漢字たち (よりみちパン!セ)