倚りかかる関係

1926年大阪に生まれた茨木のり子さんは、2006年に亡くなった。
その80年の生涯を想うとき、自分もすでに半分近くを過ごしてしまったことに改めて愕然とする。だからそろそろ人生の後半戦の準備を進めなきゃとも思う。


茨木のり子さんの詩については、国語の教科書などに載っているので、たびたび目にし、触れてはきたものの、私はこれまであまり親しんではこなかった。
しかし先日、知り合いたちとのメーリングリストで、彼女のファンが随分と多いことを知らされ、そうか、もう少し自分も前向きにつきあってみなければいけないかなと思わされた。


そんなわけで、今週はたまたま本屋で見つけ、手にした彼女の詩集『倚りかからず』ちくま文庫)を声に出して読んでみた。


青春時代を戦争に奪われた彼女の詩は、たぶんその時以来、覚悟を決めたような一本の芯を内蔵しているが、しかしそれでいながら、彼女の語り口はどの詩をとっても、女性らしい柔らかい雰囲気に包まれている。おそらくそこが彼女の人気の秘密なのだろう。


本書の解説を書いている山根基世さんは、茨木のり子さんを「羞じる人」だと言う。思わず大胆なことを書いてしまったとき、茨木さんはそれらを自らの言葉で茶化す。
私にはそこがなんとも物足りない。もしかしたら、それは私が男だからかもしれないが、どうなんだろう。(ちなみにメーリングリストで茨木さんの詩を紹介してくれたのは、男性である。)


ただ彼女の詩に流れるゆったりとした時間は好きだ。たとえば次のようなフレーズ。

「お休みどころ……やりたいのはこれかもしれない」
ぼんやり考えている十五歳の
セーラー服の私がいた (「お休みどころ」)

はたからみれば嘲笑の時代おくれ
けれど進んで撰びとった時代おくれ
もっともっと遅れたい (「時代おくれ」)


そうだな。私たちは、あまりに急ぎすぎてるよな。
たまにはゆっくりのんびり、休んでみるのもいいかもしれない。


しかし何と言っても、本書一番の詩は、タイトルにもとられている「倚りかからず」だろう。
その中核部分を引用しておこう。出だしから途中までだ。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

知人がメーリングリストで紹介してくれたのは、まさにこの詩である。


この詩にも最後に韜晦の表現が出てきて興ざめなのだが、「○○には倚りかかりたくない」というフレーズには、背中をピシャンと叩かれたような厳しさを感じる。「ホラ! もっと姿勢を正しなさい」と。
これを声に出して読んでいると、自分もいろんなものに倚りかかりすぎてはいないかと、反省を強いられる。


さて茨木のり子さんの詩集を声に出して読んでみたのは、何を隠そう、齋藤孝梅田望夫の『私塾のすすめ――ここから創造が生まれる』ちくま新書)を併読していたからだ。


齋藤孝の本は、これまでにも何冊か読んできたが、どうも肩すかしをくわされることが多い。
発想というか、目のつけどころはいいんだけど、そして問題意識もすごく共感するんだけど、実際に本を読んでみると、底が浅いというのか、今ひとつ物足りないのだ。
本書もタイトルに惹かれ、買ってはみたものの、どうにも退屈で、途中で何度も寝てしまった。


本書は教育学が専門の齋藤と情報屋の梅田が3回にわたる対話を行い、それを収録・活字化したもので、全部で4章仕立てに構成されている。
章と章と間には、それぞれのコラムも挿入されていて、読みやすく工夫されているが、やはり内容が貧困なため、どうにも読むのがつらかった。(今日本で、いや世界で活躍している人って、こんなレベルなんですかね? ちょっと寒いよね。)


ただあまり文句ばかり言っても仕方がないので、少しだけ勉強になったところを紹介しておこう。
それは梅田の「やる気のない人にどうやってやる気をもたせるか」という質問に対して、齋藤が次のように答える場面である。

端的に言うと、「あこがれ」と「習熟」が二本柱だと僕は思っています。「あこがれ」というのは、これがすばらしいんだとあおられて、その気になってやってみるということ。もうひとつの「習熟」というのは、「練習したらできた」という限定的な成功体験だととらえています。

この発想は前にこのブログでも紹介した内田樹の主張とも重なっているが、今の学校教育にとって、一つの有効なヒントになっていると思う。


齋藤は、教壇に立つ「先生自身が何かにあこがれていないといけない」と言う。すると、生徒たちはその先生の存在から「あこがれの発散」を感じられると言うのだ。
うんうん、これなら私にも自信がある。自分の能力はたかが知れているが、「あこがれ」の人なら、たくさんいるからだ。
そうだ、自分の勉強は、そういう人たちに少しでも一歩でも近づきたいとの一念でやってきたのだ。そういうことなら、いくらでも情熱的に語れる。


齋藤と梅田のこの本の面白さは、そうした学びの場を「私塾」という舞台で考えようとしているところだ。「私塾」=「志向性の共同体」。梅田は自分の専門を活かし、それをネット上でも展開したいと考えているようだ。これは大いに可能性があると思う。


しかしその彼が、後半「「義理」とかそういうものを捨てる。これは一番大事ですよね」と発言しているのは、断じていただけない。私とは全く逆の意見だ。
梅田は自分の仕事のために「義理」を捨てると言う。私はむしろ、人と人とのつながりをできる限り大事にしたい。前回のブログで書いた「ランダムな線」をこそ重視したい。


「義理」を欠いた「私塾」なんて、本当に成り立つんですか? と二人には問いたい。


そうか、そうすると、今の時代では逆に、互いに「倚りかかる」ことを意識した方がいいのかもしれないな。
「思想」や「宗教」や「学問」や「権威」に倚りかかりすぎるのはまずいけれど、人と人なら、時には「倚りかかる」ことも大切かもしれない。
倚りかかったり、倚りかかられたりするのって、幸せを感じるもんな。


倚りかからず (ちくま文庫)

倚りかからず (ちくま文庫)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)