一縷の望み

この生きにくい時代をどう生きぬくか。これはなかなか難問だ。


今回はそのヒントになりそうな2冊をとりあげておきたい。
1冊は大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書)。もう1冊は佐藤優魚住昭ナショナリズムの迷宮 ラスプーチンかく語りき』朝日新聞社)だ。


先週末、京都へ出かけていたのは、実はある研究会で大澤真幸氏と坂口安吾について語り合うためだった。
大澤氏は今や知らない人のいない気鋭の社会学者である。私はかなり以前から彼のファンで、著作はあらかた読んでいる。(もっとも彼の最近の著作はどれも大部で難解なため、なかなか追い切れていないのだが。)
『不可能性の時代』は、彼の最新作の一つで、比較的読みやすい部類の本だ。


大澤氏は超多忙な方で、なかなか連絡がつかなかったのだが、それでもなんとかお会いすることができて、よかった。すごく勉強になった。
大澤氏は切れ味の鋭いナイフのような人だった。曖昧でパラドックスに満ちた安吾の言葉を見事に論理明晰に料理してみせた。いや、本当にさすがだ。錆びついたナイフではこうはいかない。(ただし私は切っても切っても、切れない部分にこそ文学の肝があるのだと考えている。大澤氏にはそこら辺を質問としてぶつけてみた。その答えはやがて雑誌になると思うので、その時に確認していただきたい。)


大澤社会学を理解するための最重要タームは、なんと言っても「第三者の審級」だろう。これを説明するのはなかなか難しいが、私たち人間の言動を無意識的に規定している(ということは、私たちも無意識的に参照しているということだが、)存在のことと言えばよいだろうか。
大澤氏自身もこのキーワードをもとに思考を重ね、その定義を微妙に変化させてきているように思うが、まぁ手っ取り早く言ってしまえば、「第三者の審級」とは「神」のような存在と理解すればよいだろう。要は超越的なまなざしの担い手のことだ。


本書『不可能性の時代』は、やはりその「第三者の審級」ということを念頭に現代日本の変遷を分析したもので、ここでも彼の切れ味は鋭い。
大澤氏は自らの師である見田宗介氏の主張を踏まえ、戦後日本を次のように時代区分してみせた。すなわち「理想の時代 1945〜60年」、「夢の時代 60〜75年」、「虚構の時代 75〜90年」、そして「不可能性の時代」。オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件が95年。大澤氏はここに虚構の時代の極限=終焉を見て、それ以降を「不可能性の時代」と呼ぶ。
それぞれの時代名称はいずれも「現実」との関わりにおいて命名されている。「理想」は未来において現実へと着床することが予期されている反現実だが、「虚構」はそれがやがて現実化するかどうかに不関与な反現実である。いわば「虚構」は、もはや「現実」の範疇外なのである。
そして私たちは今日、その「虚構」を通り越して、逆転現象を目の当たりにする社会に生きている。それは「現実への逃避」とでも呼びたくなるような現象である。現代人(特に若者)は、「これこそ現実!」と見なしたくなるような現実に飢えているのではないか。たとえばそれは極度に暴力的であったり、激しかったりする「現実」であり、リストカットなどの自傷行為の流行は、その現れの一つであるとも見なしうる。


「理想」から「夢」、「夢」から「虚構」の時代へとどんなふうに移行していったのかということについては、本書をじっくりと紐解いてもらうことにして、ここでは「虚構の時代」の寵児、オタクを取り上げておこう。本書の肝となるところだ。(つい最近、総理大臣に就任した麻生氏は随分とオタクを買っているようだが、やっぱりちょっとピントがズレているというか、少し時代遅れなんだよな。)


オタクとは言うまでもなく、80年代に登場してきた、ある種の志向性をもった人々のことであるが、彼らは趣味的な細部情報に異様に固執する性向があり、大澤氏はそれをもって彼らを相対主義者と呼ぶ。
彼らの世界では規範の妥当性を担保する超越的な他者である「第三者の審級」は不可視化される。彼らは物語全体を統括する神の視点にはほとんと興味がなく、たった一人の女性キャラに「萌え」ることができれば、それでいいのだ。以前、このブログでも取り上げた東浩紀氏は、そうしたオタクたちの志向を「データベース消費」と呼んでいた。


しかし大澤氏は、そこをさらに一歩進めて「虚構」への入れ込みが過剰になると、「アイロニカルな没入」がおき、「第三者の審級」がより一層強力に回帰してくるのではないかと分析する。
このことは今のネット社会のことを想起すれば、わかりやすいかもしれない。誰もが好き勝手に発言できる空間では、次第にそれらの発言を統括する「メタ的な視点」が要請されてくる。
東氏と同年代の北田暁大氏は「2ちゃんねる」を分析しながら、あの空間では「ギョーカイ」なるものが全体を統括する視点になっていると説く。大澤氏の考えでは、それが新たな「第三者の審級」というわけだ。


相対化が進む一方で、新たに強力な「第三者の審級」が登場してくる。この矛盾こそが「不可能性の時代」の特徴だ。
大澤氏は〈不可能性〉とは〈他者〉のことではないか、と言う。人は〈他者〉を求めている、と同時に〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に忌避もされている〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態である、と。


オタクたちが陥っている相対主義は、文化レベルでは多文化主義と言う。多文化主義では、まさに多文化状態を容認するわけだから、普遍的な規範を支える超越的な視点はもはや存在していないということが前提になる。そしてそうした超越性を無化していこうとする強い力学こそが「資本主義」そのものである。
しかしここでも「アイロニカルな没入」が起きる。多文化主義は、結局、超越的な他者の存在を前提にせざるを得ないのだ。そのことはアメリカが世界に仕掛けている経済戦略を見れば、明らかだろう。いや「民主主義」の名のもとに行われている殺戮を、と言うべきか。(後半で扱う佐藤優氏は、「民主主義」と「ナショナリズム」ほど相性のいいものはないと言う。)
一方で「第三者の審級」を否認しつつ、一方で「第三者の審級」を要請する、このパラドックスに満ちた時代こそ「不可能性の時代」なのである。具体的な政治のレベルでは、これを「新自由主義」(ネオリベラリズム)と言う。(これについてはまた後で触れることにしよう。)


大澤氏はこうした時代の一縷の「希望」として、ダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツの「小さな世界」の理論を紹介し、「ランダムな線」をひくことで、市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分に可能だと示唆している。
この考えは今、私が構想していることと非常に近く、大いに勇気づけられた。つまり要は人と人のつながりをどう図っていくか、その新たな共同性にこそ可能性があるということだ。私はそうした「場」をつくってみたいと考えているのだ。


さてもう1冊の『ナショナリズムの迷宮』の方は、もっと具体的な内容になっている。
本書は、起訴休職中の外務事務官(と言うよりは、もはや最近は文筆家)の佐藤優氏とジャーナリストの魚住昭氏の対談本である。「対談」と言うよりは、魚住氏が聞き手役に徹し、佐藤氏の思想をうまく引き出しているという感じの本だ。
私は今回初めて佐藤氏の本に接したが、彼の発想は噂通り、非常に奥が深い。さすがたいしたものだ。風貌はいかついオッサン(失礼!)という感じだが、なかなかどうして緻密な計算と深い思索のできる男だ。だいたい彼は同志社大学の神学部卒業だしね。(たぶん外務省ではできすぎて、周りから煙たがられたんだろうね。)


本書には17回にわたる2人の話が収録されているが、現代の日本社会、そして世界の動向を読み解くうえで、本当に目から鱗の言葉が散見される。
今回は前半の大澤真幸氏で少し長くなりすぎたので、後半は私が思わず唸った佐藤氏の言葉を引用しておくにとどめよう。しかしここだけでも必見だ。

佐藤―当たり前だと思っていることこそ「思想」で、ふだん私たちが思想、思想と口にしているのは「対抗思想」です。護憲運動や反戦運動にしても、全部「対抗思想」なんです。

佐藤氏は200円を払ってコーヒーを飲むことこそが「思想」だと言う。つまりお金を払って何かを得る、そのこと自体に私たちはなんの疑いももっていない。そういう状態こそが「思想」なのだ。

魚住衆議院の三分の二以上を与党で占めることができた小泉首相が、ファシズムを完成させるのに欠けてるものって何ですか。
佐藤―「やさしさ」です。やさしくなければファシズムじゃないんです。

新自由主義」を純化させた小泉首相の弱点をこんなふうに言った人はいないのではないか。
私は今の社会を生きにくくしている元凶は、この「新自由主義」にあると思う。それは大澤真幸氏の言う「アイロニカルな没入」に嵌った政治のあり方で、一方で自由をうたいながら、もう一方では非常に強烈な権力を振りかざす。これこそ「不可能性の時代」に最もマッチした政治だろう。(小泉氏に「やさしさ」が足りなかったから、「ファシズム」になりそこねたという事態を私たちは喜ぶべきなのかどうか。その小泉氏も先日、ついに引退を表明した。迷走を極める日本は今後一体どこに向かっていくのだろう。)


ただし日本をリードしているのは、なにも政治家だけではない。佐藤氏は日本をおかしくしている輩として、はっきりと官僚を挙げている。

佐藤―私はナショナリズムの病理を発症させる上でいちばん大きな役割を果たしているのが官僚だと考えます。なぜなら、“国家の実体は官僚”だからです。
(略)
魚住―つまり、官僚=国家は、収奪するために存在していると。
(略)
佐藤―実は、外務省で仕事の質や量との関係においてコストパフォーマンスがいいのは、四〇代後半で無能だと見なされたノンキャリアなんです。仕事はない、金はざくざく入ってくる。こんなにいいことはない。

休職中とは言え、官僚本人が言ってるんだから、間違いはない。今日本に巣くっているガンは、官僚たちである。厚労省農水省のお粗末さは、大臣に責任があるわけではない。大臣なんて誰がやっても同じことだ。(大臣にもお粗末なのが多すぎるけど。)
やはり病巣は大臣を隠れ蓑に甘い汁を啜っている連中の方だ。その構造を変えない限り、おそらく日本の政治は変わらない。
私たちは官僚たちの責任をあまりに追及してこなかった。マスコミも大臣ばかりいじめてないで、官僚たちを責めなさい。
さもないと、日本に夜明けはこない。大臣ばかり(最近は首相さえも)コロコロ変わっても、日本はよくはなりはしないのだ。


では私たちには一切の「希望」もないのだろうか。佐藤氏は次のように言う。

魚住―じゃあ、どうしたらいいんだろう。
佐藤―思想の間を移動することしかないんですよ。私たちに残されたのは。絶対正しいものはあってもいいんです。ただし、それは複数あるんです。
(略)
佐藤―世の中、ろくでもないものしかない。国家だってろくなもんじゃない。しかし、ろくでもないもののなかをうまく歩いていかねばならない。繰り返しますが、重要なのは、絶対に正しいものはあるかもしれない。それは誰にとっても正しいものではなく、ある特定の集団にとっての正しいものであるにすぎないということ。そうした絶対に正しいものは複数あるんだと。あとは、私たちがその想像力をどこまで持てるかということだと思うんですけどね。

佐藤氏のこの言葉は、肩に入っていた力をふっと抜いてくれる。
そうだ、大きな国家を相手にする必要はない。「特定の集団」=「小さな世界」の幸せを作り出せればそれでいいではないか。


大澤氏にしろ、佐藤氏にしろ、必ずしも具体的な提案には至っていないのだが、最後まで望みを捨てず、思索を続けている姿に人としての誠実さを感じる。
私もこうありたいものだ。


不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)