時を孕む少女
人生はなかなか思うようにならないもので、ここんとこ突発的なトラブルに巻き込まれてばかりいる。それで少々身も心も停滞気味だ。
それでも月日はめぐり、先へ先へとわたしを運んでいく。――わたしたちはそうした事態をただ「忙しい」のひと言で片付けてしまうけれど、もしかしたら本当は当たり前のように過ぎ去ってくれる時間というものにわたしたちは心から感謝すべきなのかもしれない。
先々週の16日(土)は、仕事で早朝から東京へ出掛けたついでに帰り際、渋谷Bunkamuraギャラリーで行われていた「少女幻想綺譚―その存在に関するオマージュ」を覗いてみた。
こぢんまりとした展覧会だったけれど、タイトル通り、宇野亜喜良、金子國義、四谷シモンなど総勢50余名の作家たちによって「少女」へのオマージュが惜しげもなく披露されていた。
場内は、思ったよりも賑わっていて少し窮屈だった。見に来ていたのは、若い人たちが多かったように思う。
先に名を挙げた3人の作品は、むろん大変な存在感で会場を圧倒していたが、私はそれらよりもむしろ佳嶋、千之ナイフ、丸尾末広たちの小さな絵の方に魅了された。特に佳嶋の赤頭巾をモチーフとしたCGアートは素晴らしかった。
四谷シモンの500万する人形にはとても手が出せないけれど、佳嶋の作品は25,000円くらいで、これなら自分でも買えそうだと思った。(もっとも買ったところで、わたしには飾る部屋がないので今回は断念したけれど。でもいつか素敵な絵を飾れるような部屋で暮らしたいな。)
ところで人はなぜ「少女」という存在にこれほどまでに取り憑かれるのだろうか。
たとえば、かつてルイス・キャロルは自らの幻想の中にアリスという永遠の少女を創りあげ、世界的に有名になった、あの童話を紡いだ。一方、現代日本ではロリータファッションに身を包む生身の乙女たちが都市というテクストをせっせと昂進=更新している。
私の周りで「女はすぐに「少女」から大人へと成長してしまうから、男はその貴重なひとときに憑かれるんじゃない?」と提言してくれた人がいたが、男の側から言わせてもらうと、むしろ「子供」と「大人」というふうにはっきり割り切れないところにこそ「少女」というものの怪しさと魅力があるような気がする。
清らかさと危うさが乱雑に絡み合う存在。わたしたちは無意識のうちに「少女」のなかにそうした相矛盾する両義性を発見し、それをそのまま永遠に形象化しておきたいと願っているのではないだろうか。それは失われゆくひとときを惜しむ気持ちと言うより、行きつ戻りつ、その振幅の中で時間をたゆたう危うさとか可憐さと言ったほうが適当な気がするが、どうだろう。
残念ながら、わたしには妻に断りもせず、佳嶋の絵を買う勇気がなかったので、代わりに会場の片隅で販売されていた佐々木幹郎の『人形記 日本人の遠い夢』(淡交社)を買って帰った。(これは前々から欲しかった本だ。)
この本は、詩人である佐々木が「人形とは何か」という問いを抱え、カメラマン・大西成明とともにさまざまなトポスを旅した、その時々の記録であり、貴重なレポートとなっている。
「少女」のなかに潜む両義性が男心を(いや女心も)くすぐる仕掛けなのではないか、という私の仮説が大きく外れていなければ、「少女」には「人形」がよく似合う。
佐々木はその「人形」に憑かれた人で、本書には土偶・埴輪の時代からアキバ系美少女フィギュアまで実にさまざまな「人形」が取りあげられている。宇野亜喜良のギニョル(指人形)も四谷シモンの人形もちゃんと出てくる。写真も豊富に掲載されていて見た目にも楽しい。(あぁ、わたしもいつかこんな旅をしてみたい。)
ほかにも「手あやつり人形師」の12代目結城孫三郎とか、官能的で幻想的な人形をつくる辻村寿三郎のアトリエとか……どれもこれも興味をそそられる。
変わったところでは、ムットーニこと、武藤政彦の「からくり書物」=「お話玉手箱」というのも紹介されている。萩原朔太郎の「猫町」とか、夏目漱石の「漂流者」といった物語を「からくり人形」で表現したものだ。(わたしはこれをチラッとテレビで見たことがあったが、うん、ぜひとも本物を直に見てみたい。)
しかしなかでもわたしをもっともドギマギさせた人形は、竹久夢二の「少年」と「ピエロ」である。夢二人形というらしいのだが、現存するのはこの2体だけ。どちらも悲しげで薄幸そうな、あのなよなよとした夢二独特の美人画を想わせる。
夢二の絵にはたいてい詞書きがつく。たとえば、有名な「宵待草」はこんな感じ。
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよいは月も出ぬそうな。
夢二にとって絵は詩そのものであった。
詩人の秋山清は「来たものは必ず行く。行ってしまった後のはかなさよりもまだ来ないものをまちつづける期待の方が、はるかに耐えるに価する。夢二はそのような怖れと期待につつまれたアンニュイのなかに、過去と未来への夢をもちつづけた人ではなかったか」と述べる。
もしかしたら、わたしたちは「しあわせ」というものを簡単に手に入れてはいけないのかもしれない。ゴールの一歩手前で未完であり続けること。そこに悲しみと美しさが同居する。「少女」が内包する魅力もこのことと関わっているような気がする。
それにしても夢二の「少年」には、驚かされる。だって、夢二は肌色の布をなんと顔の正面で縫い合わせているのだ。その絶妙な痛々しさと愛らしさ。(書店で本書を見かけたら、ぜひ86頁だけでもいいから開いてみてほしい。)
画家であり、詩人であり、イラストレーターであり、商業デザイナーであり、そして人形作家でもあった竹久夢二。いつかまた機会があったら、そのマルチなタレントを追いかけてみたいと思う。
人形は「ひとがた」とも読み、日本人はそれを人間の身代わりとする風習を育んできた。そこには折口信夫が指摘する「産霊」(むすび)の信仰が与っている。「むすぶ」とは「元来、或内容のあるものを外部に逸脱しない様にした外的な形」を意味する。そして佐々木幹郎は、次のように言う。
人形を「ひとがた」と言い、人間の身代わりだとしてきた日本人の発想には、「生命のない物質の中へ」魂を入れると、その魂が発育し、物質である容器も育ってくる、という「産霊」の信仰がもたらした根強い宗教観が示されている、と見ることができる。
「生命」を産み出す女性が「人形」のモチーフになることが多かったのも、これで少しは理解できよう。
そこに夢二的「時間」感覚が加わると、両義的でやるせない「少女」の魅力が浮上してくるのかもしれない。
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¶「少女」については、なんと言っても澁澤龍彦の『少女コレクション序説』(中公文庫)を繙かれたい。澁澤は「少女」という存在に「物体」性を指摘している。だから「少女愛」は「物体愛」でもあるわけで、そこに男どもの蒐集癖の根拠も披瀝されている。
- 作者: 澁澤龍彦
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