「自由」であるために


わたしの周りの女性たちの間では、姜尚中の人気が高い。いかにも頭がきれそうなシャープな顔立ちと落ち着き払ったあの低くて甘い美声が人気の秘密のようだ。
わたしは彼のそうしたスタイルはもちろんのこと、学者としてのセンスにも十分敬意を払ってきた。(わたしは一度だけある講演会でご本人をお見かけしたことがあるが、彼はテレビに出ているあの雰囲気のままで、やっぱりそんじょそこらの学者とは少し違ったオーラを放っていた。いま彼は一応、東大の先生ということになっているが、知り合いから聞いたところによると、東大の構内でも彼をつかまえることは難しいようだ。まぁそれぐらい多忙で、連絡のとれない身にあるらしい。東大でも特別なVIP待遇らしいのだが。)


わたしの専門は政治学ではないが、それでも彼の本は何冊か持って読んでいる。印象に残っているところでは『オリエンタリズムの彼方へ――近代文化批判』(岩波書店)、『在日』(講談社)あたりか。とても面白く、勉強になった。
しかし今回、虫虫でとりあげたいのは、ロングセラーとなっている『悩む力』集英社新書)。帯には彼の顔写真が使われている。(わたしの知り合いの女性は、版を重ねるごとに帯の顔写真が変わることをチェックしていて、2冊目、3冊目を買おうとしているみたい。いやぁ、すごい人気だね。)
この本については前々から気にはなっていたのだが、なんとなく買う機会がなく、本屋ではいつも並んでいる前を通り過ぎていた。そんな折り、ある学生がゼミ形式の授業でとりあげたいと言ってきて、それでわたしは慌てて読んだのだった。


読んでみると、なるほどとてもわかりやすい文体で、すうっと心に入ってくる。これなら売れる理由も納得だ。
姜は本書で自らの青春時代・読書体験を振り返りつつ、マックス・ウェーバー夏目漱石という2人の同時代人を取りあげ、今日的な9つの課題について、その対処法を提案している。ウェーバー漱石という組み合わせがなかなか面白いが、この2人は単に同時代人というだけでなく、ある意味「近代」という複雑怪奇な時代を引き受け、そして率先して悩み抜いた先人でもある。(わたしは姜の文章からあらめて今日の課題がやはり「近代」という時代に端を発していることを痛感した。だから「近代」=モダン/モダニズムを追究することはいまでも十二分に意味のあることと言える。)


その「近代」という時代が今日にもたらした最も厄介なプレゼント――9つのテーマの根本にあるもの――は、おそらく「自由」である。「不自由」なら困るけど、「自由」なら何も困る必要はないじゃないか、と思う人があるかもしれないが、ところがそう簡単にはいかない。
姜はそこらへんのことを「自由」が究極まで進むと、人は「よるべのなさ」を味わわねばならなくなると説明している。これは逆のことを考えるとわかりやすいだろう。たとえば、前近代的に「お前が信じるべき神はこれだ」とか、「この国ではすべて国王の取り決めに従え」と言われたほうが、人は案外気が楽なのである。なぜなら寸分も疑問の余地がないからだ。
ところが、死ぬのも生きるのも自由、自分で考えて決めなさいと言われると、人は急に不安になる。仕事も恋愛も自由。どんな職業についてもいいし、誰とつきあって結婚しても構わない。そうなると、わたしたちは否応なく自分というものに向きあわざるを得なくなる。自分の適性は何か? 自分が恋愛に求めているものは何か? このことが本書・第1章で扱われている「自我」の問題となり、「金」の問題(第2章)、「宗教」の問題(第5章)、「愛」の問題(第7章)へと連なっていく。


なかでもわたしには、第7章「「変わらぬ愛」はあるか」というテーマについての姜の考えが面白かった。姜は自分が実感していることとして、結局「愛には形がな」く、「愛のあり方は刻々と変わる」と断言する。
そして「私にとってこの人は何なのか?」と問うことは、問いかけ自体が間違っていて、相手と向かいあうときは、相手にとって自分が何なのかを考えるべきなのだと言う。だから彼の解釈においては「相手の問いかけに応える、あるいは応えようとする意欲がある、その限りにおいて、愛は成立している」ということになる。
「人の愛し方などという法則はなく、チェスの勝負と同じよう」に、わたしたちは「そのときそのときの配置を見ながら、最良と思える手を打っていく」しかない。それができなくなって「最終的に相手に対して遂行的になる意欲がまったくなくなったとき」、姜は「愛は終わる」と言う。


このように本書で展開される主張は、どれも背伸びしたものではなく、わたしたちの現実に根差した等身大の意見になっている。だから読んでいて、わかりやすいし、そのどれもが首肯できる。逆に言えば、結論的にはどれもこれも「平凡」に見えるのだが、それがかえって、わたしには新鮮に映った。
たとえば、姜は第1章「「私」とは何者か」では、「まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか」と述べているし、第2章「世の中すべて「金」なのか」では、「結局は漱石たちと同じように、できる範囲でお金を稼ぎ、できる範囲でお金を使い、心を失わないためのモラルを探りつつ、資本の論理の上を滑っていくしかない」と記述する。あらためて顧みれば、彼は当の問題から何ら結論めいたことを言ってないようにも思えるのだが、しかしそこにこそ彼の誠実さを見るべきなのだと思う。わたしは難しい専門用語でごまかしたりしない彼の態度と心意気に逆に一流の学者肌を感じる。


ただし、では彼が何のサジェッションもしていないかと言うと、決してそうではない。本書全体を貫いているキーワードは「相互承認」であろう。姜はところどころでこの言葉を使っている。
たとえば、人が働くのは「金」を得たいためだけではなく、「社会の中で、自分の存在を認められたい」からだ。人が恋愛するのもこのことと関わっているし、人に生きる力を与えているのも、この「相互承認」にある。

自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです。

当たり前と言えば、当たり前の結論だが、しかしやはりこの言葉はこれからの社会のキーワードになっていくだろう。


姜は最後に現代の閉塞感を打開するには、いろいろな意味で「突きぬける」必要があると言う。そしてそのためにこそ、若い人には大いに悩んでもらい、悩みの果てに突きぬけて「横着」になってほしい、「そんな新しい破壊力がないと、いまの日本は変わらない」と言う。
この意見にはわたしも大いに賛成だが、しかし普段若い学生に接している身からすると、いまの無気力で消極的な学生たちに「新しい破壊力」を直接に期待するのは、少々甘い考えではないかと思う。そこにはもうワンクッション、何か仕掛けが必要だろう。(と言って、わたしに別の妙案があるわけではないのだが、まぁ偶然にも教壇に立つことになった自分としては、教育という現場でやはり一手一手、最善の手を尽くしていくしかないのかなと思っている。)


姜の人気ぶりに比べると、自らヒール役を買って出ているように見えるのが宮台真司だ。
たしかに彼は頭がいい。(わたしは宮台にも一度会ったことがあるが、彼は90分の講演をほとんど何のメモも見ず見事に整然と喋りまくった。そのときはいやぁさすがだなあと思ったのだけれど……。)しかしやっぱりわたしはどうも好きになれないタイプだ。
と言うのも、彼にはぶっちゃけ過ぎるところがあるからだ。そしてそのぶっちゃけも真実をついていて当たっているだけにかえって厄介だ。(ここがまた彼が憎らしく見えるところである。もっとも彼自身の発言を信じるなら、彼は25歳から10年間以上、常時5人の女の子とつき合い、セックスをした女の子が100人をこえたというからモテル男ではあるらしいのだが……。)


実はわたしは姜の『悩む力』を読みながら、宮台真司『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』世界文化社)を思い出していた。
女性に大人気の姜とナンパ師の宮台――まったくかけ離れた2人に見えるが、この2冊を並べてみると、2人は意外にもよく似たことを述べていることに気づく。
どこがどう似ているかは、あとで述べるとして、まずは『14歳からの社会学』をざっと紹介しておきたい。本書は、そのタイトルにもあるように、14歳の中学生に向けて書かれた社会学の入門書であり、生きにくい現代社会を生き抜くための指南書にもなっている。
宮台の見解は相変わらずぶっちゃけ過ぎていて、親としては少し抵抗を感じるかもしれないが、読みやすいわりに中身が濃く、中学生の参考書としてはよくできていると思う。(もちろん大人が読んでも十分役に立つ。)


では、具体的に宮台の真実をついたぶっちゃけぶりをいくつか披露しよう。(結構、腹が立つよ。気をつけてね。)
彼は、社会が豊かになっていくあいだはどの国でも「みんな仲よし」という教育がおこなわれていたと言う。でもそれがうまくいかなくなった今日、ほかの国では「みんな仲よし」という教育を早い段階でやめた。それなのに日本には未だにそれが残っている。
彼は現実では「「みんな仲よし」はあり得ない。仲よくできない他者たちとどうつき合うかについて、考えなくちゃいけない」、だから結局は「自分に必要な人間とだけ仲よくすればいい。自分に必要でない人間とは、「適当につき合えば」いいだけの話だ」と言い張る。
至極もっともだけれど、身も蓋もない言い方だけに心にグサッと突き刺さるものがある。


では次はどうだろうか。ぶっちゃけトーク、第2弾。
宮台は「仕事が向いていなかった」と言ってすぐに転職しようとする教え子に「向いた仕事じゃなかったっていうけど、そもそも君に向いた仕事なんてあるの? 会社が複数あったとしても、君程度の人にわざわざ『向いた仕事』の座席を用意してる会社なんてあるの?」と聞くそうだ。さぁ、どうだ。(やっぱり憎たらしいね。聞かれた方はなんてこたえたらいいんだろう。)
宮台はここから「仕事で自己実現」という考え方を捨てろと言う。もっとわかりやすく言い換えるなら、「これさえあれば十分」という考え方をして、割り切って仕事を探せということだ。
たしかに日本人は労働に「やりがい」とか「生きがい」とかを求めすぎる嫌いがある。会社は儲けるためにあるわけだから、儲けを度外視して社員に「生きがい」を与えるわけにはいかない。考えてみれば、当たり前のことだ。


こんな宮台と姜のどこが似ているのかと言うと、実は2人とも「自由」ということを思考の土台においているのだ。これは先にも書いたように「近代」が与えてくれた厄介なプレゼントである。この「自由」となんとか折り合いを付けていくことが、わたしたち現代人の課題だ。
宮台は、世の中のルールには2種類あると言う。「行為功利主義」と「規則功利主義」。「功利」というのは、人が「幸せ」になること。どんな「行為」をすれば、人が幸せになるかと考えるのが「行為功利主義」で、どんな規則が人々を幸せにするかと考えるのが「規則功利主義」である。この2つの考えは、しばしば対立する。


ルール的にはアウトだけど、そうすることでその人が幸せになるなら、例外的に認めてやりましょうというのが、「行為功利主義」の考え方である。
本書で挙げられている例で言えば、農作業をするのに線路を渡っていかなければならないお爺さんが、10年以上要求してもJRがなかなか踏切を作ってくれないので、ついには自分で踏切を作ったという事例である。
「行為功利主義」でいけば、それでお爺さんが幸せになったんだから、まぁ大目に見てやりましょうということになるが、「規則功利主義」ではこのお爺さんの行為は絶対に認められない。(2008年に起きたこの事件、実際のところは、威力業務妨害でお爺さんは逮捕された。)


昔は「行為功利主義」が結構認められたが、現代ではどんどん「規則功利主義」へシフトしつつある。(こう言うと、学校でも職場でも事細かにルールが定められていって、ありとあらゆる場所がだんだん窮屈になっている現状に気づく人も多いと思う。)わたしたちは「規則」でがんじがらめになって、ほとんど身動きがとれない状態に陥っている。
ではなぜそうなってしまったのか。ここには意外にもインターネットという背景がある。つまり一昔前までは、踏切を作ったお爺さんの「行為」は、ローカルな範囲で大目に見ることができたが、インターネットでそれを世界中に発信されてしまったら、次々と同じ行為に及ぶ者が現れ、それこそJRにとっては「業務」に支障がでてきてしまうのだ。だからネット時代では、ひとつの例外も許されない。したがって、必然的に今日の世界では「規則功利主義」の志向が強まっていく。


わたしたちは誰もが「自由」に生きたいと願う。しかし社会に生きている以上、ルールを順守しないわけにはいかない。そのバランスが難しい。
宮台は単に「自由」にふるまうだけじゃ、君は幸せになれないと言う。「人が幸せに生きる」ための条件として「尊厳」がある。「尊厳」とは、「自分がそこにいてもいいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えること」である。
「自由」が別の人の「自由」をおしのけないようにするには、ルールを調整することが大切だが、それだけでは足りない。ルールで「自由」を尊重するだけでは、みんなの「尊厳」を支えられないからだ。(これはキリスト教の国のイスラム教徒、イスラム教の国のキリスト教徒を想定すればわかりやすいだろう。ルールで信教の「自由」を認めたところで、その人が「尊厳」を得られなければ幸せを感じることはできない。)


そこで社会学では、みんなの「尊厳」を支えるには、「自由」と「多様性」の両方が必要だと考える。「自由」だけだと、多数派や強い人たちの色に社会が染まりすぎるためだ。
また逆に「尊厳値」が低ければ、人は他者の前で思い通りにふるまえない。つまり「自由」になれない。だから「自由」であるためには「尊厳」が必要になる。そしてその「尊厳」は、他者から「承認」される経験を必要とする。他者から「承認」された経験があるからこそ、人は「尊厳」を得られ、「自由」にふるまえるわけだ。
もうおわかりだろう。ここで宮台が言っていることは、姜が言っていた「相互承認」の考え方と重なっている。


人はひとりでは生きられない。わたしたちは他者とともにあることを自らの喜びと感じなければならない。そしてそれを社会システムとして構築すること、これが21世紀に生きる現代人の大きな課題だと思う。
わたしがやってみたいと思っている私塾もこのことに深く関わっている。


悩む力 (集英社新書 444C)

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14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

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¶本文を書いてから気づいたのだが、姜と宮台には共著『挑発する知―愛国とナショナリズムを問う』 (ちくま文庫) がある。わたしは未読だが、この2人ならきっと馬が合って、議論がはずむに違いない。