世界のカラクリ

katakoi20082008-11-17



昨日16日(日)は、用事のあったついでに千葉市生涯学習センターホールで上映された映画「NAKBAナクバ」を観てきた。
市民団体〈マルハバ!パレスチナ〉が企画したもので、映画上映後には広河隆一監督の講演会も行われた。


「NAKBAナクバ」は、イスラエルパレスチナ問題を扱った映画である。
1948年5月にイスラエルが独立を宣言、第一次中東戦争がはじまり、約70万人のパレスチナ人が難民となった。パレスチナ人は、この事件をNAKBA(大惨事)と呼ぶ。今から60年前の話だ。しかしNAKBAは、まだ終わっていない。終わっていないどころか、情勢はますます複雑化・激化を極めている。
いったいこれはどうしたことか。我々は何を傍観しているのか。


それは土地をめぐる争いだった。
映画の途中、ハイファ大学のユダヤ歴史学者が次のように語るシーンがある。

1948年にパレスチナ人に何が起こったかを理解するには、英国統治の終わりごろまで遡らなければならない。英国は1947年2月パレスチナから撤退する決定を行い、パレスチナ問題を国連に委ねた。パレスチナにおけるユダヤ人指導者やユダヤ人社会の影響の下、国連は土地を二つの国に分ける提案(国連分割案)を提出した。しかしパレスチナ指導者やアラブ諸国には受け入れがたいものだった。

イスラエルユダヤ人)にとっては、エルサレム旧約聖書に記された「約束の地」だった。そこに帰ることは常に悲願だった。しかしその場所には、そこで生まれ、先祖から受け継いだ大地とともに暮らすパレスチナの人々(アラブ人)がいた。


そこをむりやり国連は線引きした。ユダヤ人にとってアラブ人は邪魔者となり、アラブ人にとってユダヤ人は占領者となった。
ユダヤ人は1948年、アラブ人移送計画(トランスファー)を実行にうつし、二度と彼らがふるさとに戻って来られないよう村々を破壊した。アラブ人はイスラエルユダヤ兵を相手に激しく抵抗した。それはやがて民衆蜂起(インティファーダ)へと発展していく。
こうしてパレスチナは血で血を洗う場所に変貌した。抵抗と弾圧の繰り返しが今なお行われている。
そこにはさらに第二次世界大戦で行われたホロコーストシオニズムの問題も横たわっている。


日本人はこのイスラエルパレスチナ問題をどこまでわかっているのか。ほとんどが知らないのではないか。いやいや、知ろうとさえしていないのではないか。どこか遠い国の話として片づけていないか。これはまずい。
たしかにこの問題は難しい。日本人には理解しがたい。宗教や民族、歴史の問題が複雑に絡まり合っている。


いや、しかしそれだけではないのだ。ここには常にアメリカに遠慮する日本のメディアの脆弱さが露呈している。なぜならイスラエルの背後にはアメリカが控えているからだ。(このカラクリ、わかるかな?)


でも私たちには広河隆一がいる。40年にわたってこの土地を撮り続けてきたフォトジャーナリストだ。世界に知られた日本人ジャーナリストだ。
彼は大学を卒業後、農業経営を学びに行ったユダヤ人の村の近くで偶然、瓦礫の山を発見する。しかしそれがやがて1948年に人工的に消された村であることがわかってくる。映画の冒頭のシーンだ。
ここから彼の追跡がはじまった。撮り続けた映像記録は1,000時間に及ぶと言う。


私たちはまず彼の写真と映像を観て、彼の声に耳を傾けてみよう。そこから世界が見えてくるはずだ。
講演会で話す彼の声は落ち着いていて、冷静だった。ああ、こういう態度が大事なんだなと思った。
イスラエルパレスチナの問題を一気に解決することは難しい。しかしだからと言って、このままの状態でいいはずがない。事実を見つめ、その一つ一つをストップしていくしかないと彼は締めくくった。


若い人に勧めたい映画である。ぜひどこかで観てほしい。

パレスチナ1948 NAKBA

パレスチナ1948 NAKBA