公私混同して語りあう


こう見えても「ボランティア」には興味があるんです。(ブログだから容姿は見えないと思うが。)


「ボランティア」については、金子郁容の『ボランティア もうひとつの情報社会』(岩波新書)を紹介してもいいのだけれど、今回はあえてより具体的で実践的な内容を綴っている長沼豊『市民教育とは何か ボランティア学習がひらく』(ひつじ市民新書)をとりあげることにしたい。


筆者の長沼氏は高校時代からボランティア活動をはじめ、中学教員を経て、現在は学習院大学で教鞭を執っている人らしい。全国の教師向けに数多くの講演やワークショップを実施し、ボランティア学習の仕掛け人として活躍されているそうだ。


ここでいきなり話は横道にそれるが、本書の版元ひつじ書房は、有限会社でありながら、かなり革新的な出版事業を積極的に行っている出版社である。学会などでも時々出店したりする、その道ではちょっと知られた存在である。
本書はそのひつじ書房が創刊した「ひつじ市民新書」の2冊目にあたっているようだ。
巻末には代表の松本功松本久美子の連名で次のようにある。

私たちは、新しい時代にいる。
新しい時代にあった知恵と知性を生み出したい。
ナレッジコミュニティを目指して、
「ひつじ市民新書」を創刊する。

私はこういう心意気をこそ高く買いたい。


ところで「ボランティア」(volunteer)とは、いったい何だろうか。これは意外に難しい。
手元の『広辞苑』には「志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人」とある。
筆者は、80年代以降「ボランティア」のイメージは、経済優先主義から脱却が図られ、量から質へと価値の転換があったと言う。


日本で「ボランティア」と言うと、どうしても「福祉」のイメージがつきまとう。それはむろん間違いではないが、「福祉」はあくまでボランティア活動の一部であり、「福祉」そのものが「ボランティア」であるわけではない。
筆者に言わせると、「ボランティア」は、今は「してあげる奉仕」から市民たちによる「支えあい」という考え方に変化してきているそうだ。


ここで言う「市民」とは、「共存しつつ、個と集団が、よりよきパートナーシップを築き、価値を見いだす人々」のことで、「ボランティア」を通じて、そうした「市民教育」を施していくことが本書のテーマだ。
そうした目的を叶えるための具体的な方策やワークショップの実践例などが、本書にはかなりふんだんに紹介されていて、学校教育においても実に参考になる。


かつて中学生は「三無主義(無関心・無気力・無感動)」と言われたが、90年代以降は「新三ない族(規範感覚がない、人間関係がない、達成意欲がない)」と言われているようだ。それだけ人間関係を上手に作れない・保てない若者が増えているということだろう。
そうした若者たちを「市民」へと引っ張り上げていくために「共生・共存としてのボランティア」が大切なのだ。


98年12月告示の学習指導要領では、初めて「ボランティア活動」という語が登場し、文科省もその教育的な効果に大いに期待を寄せたらしいが、こんなふうに役人がしゃしゃり出ると、うまくいくものもいかなくなるという不思議な法則がこの国にはある。(ったく、ねぇ。)
そもそも「ボランティア」は強制されて行うべきものではない。長沼氏は児童・生徒に「選択の自由を保障すること」が大切であると言い、そのための様々な工夫を示してくれている。文科省の役人は、ぜひ本書を繙かれたい。
私はこうした学習は、これからの社会にとって(ということは、自分にとっても)、とても大切な営みになるだろうと思っている。
今こそ「ボランティア」のイメージを一新しよう。


しかし実際には、なかなか行動にうつす余裕と勇気がない。せいぜいこうしてブログで自分の心情を吐露するしかない。(これではダメなんだけどね。)
ただ文章を綴るということも、考えてみれば、人と人とをつなぐ営みであり、「市民」となるための準備運動と言えなくもない。そのことをかなり実践的に教えてくれたのが、佐野眞一『目と耳と足を鍛える技術』ちくまプリマー新書)である。


佐野氏は、今さら紹介するまでもなく、『遠い「山びこ」』・『東電OL殺人事件』などで広く知られるノンフィクションライターだ。
本書はたいへん読みやすい新書の体裁をとってはいるが、佐野氏の具体的な執筆方法などを知ることができ、「へぇ〜、なるほど」と驚くことが少なくなかった。


ノンフィクションは料理の過程にたとえられる。ノンフィクションを書くには、「取材」と「構成」と「執筆」の3つのプロセスがあって、佐野氏はそのそれぞれを「狩猟」と「解体」と「調理」になぞらえる。そしてそれらを首尾よく遂行するためには、本書のタイトルにもあるように、「目」と「耳」と「足」を鍛えなければならないと言う。


彼は取材で集めた膨大な資料や関係者をインタビューした速記などのすべてを、仕事部屋のなかにひとまず広げ、それらを俯瞰して物語が動き出す瞬間を待ち、それからダンボール箱を利用して、カルタを取るように分類作業を行うそうだ。そうした「樽詰め」の作業をしたあとは、今度は1個1個のダンボール箱をさらに細かく仕分けていく「瓶詰め」の作業に取りかかると言う。
言わば俯瞰的な〈バード・アイ〉と地を這う虫の目のような〈インセクト・アイ〉の両方を駆使しながら、「取材」で得た材料を「解体」(構成)し、「調理」(執筆)しているわけだ。そうした過程を経ながら、彼は不足を発見し、あらためて「取材」(狩猟)に出掛けたりもするらしい。
プロのライターとは言え、やはり何かものを書く以上は、こうした気の遠くなるような苦しい地道な作業を通過しなければ、いい文章を仕上げることはできないのだ。(当たり前だけど、プロが正直に告白してくれるとなんだか妙に安心するね。)


佐野氏は「執筆」に際しては、ゴルフ用語で言うヘッドアップをしないように、つまりボールから絶対に目を離さないように、できるだけそのボールを遠くまで運んでゆくことを心がけているらしい。
なるほど、なるほど。こんなふうに文章を書くことを料理やスポーツにたとえると、わかりやすいし、抵抗感も少なくなる気がする。今度、授業で学生たちにも教えてあげよう。


私の研究対象は小説や詩などフィクションが主なので、これまであまりノンフィクションに触れることがないままに来たが、本書を読んで一番感心したのは、佐野氏が「「説く」には“大文字言葉”が便利だが、「語る」には“小文字言葉”を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの要諦だ」と言っていたことだ。
政治家や役人、テレビのコメンテーターや企業の経営者、あるいは大学や高校の教師など、いま世の中は“大文字言葉”に溢れている。たとえば小泉元首相が繰り返し叫んでいた「構造改革」って、いったい何ですか? どこがどう改革されたの? 私たちの生活はそれでよくなったの? 


そうではなく、名もなき庶民の記録として“小文字”で語ることが、ノンフィクションの原点なのである。
こうした見方は、実は小説や詩といったフィクションにも通底していると思う。小説などに描かれることは、たいていは名もなきある個人の極めて特殊な事件であることが多い。けれど、それを読んでハラハラしたり、ドキドキしたり、時には涙したりして感動できるのは、そこに自分、つまりは普遍に通じる入り口を読者庶民が見出しているからだろう。


個から民へ――。私から公へ――。
文章を書いて読むことも、ボランティアを通じて活動の幅を広げることも、結局は人と人とのつながりのなかで行われる。私たちは個々に生きているが、決して1人ではない。
ただしベクトルの方向を誤ってはならないだろう。逆向きになってしまったら、それは“大文字”で説くことにほかならないからだ。