つながる本への思い

katakoi20082008-11-15



『めざめ』(春秋社)の刊行記念イベントとして、真行寺君枝氏・松岡正剛氏の講演「「書くこと」と「読むこと」」とサイン会が神田の東京堂書店で行われた。
めずらしく妻が一緒に行きたいと言うので、久しぶりに二人で東京の街を散歩して会場を訪れた。


14時過ぎからはじまった講演会は満員で大変に混み合っていた。
お二人の話はどちらも心にジワッと染み、打ち震えるところがあった。両氏がどんな思いで本に向き合っているのか、そのことがよく伝わってきた。


真行寺氏は自社の倒産、自己破産、一家離散、離婚など次々とつらい経験をし、そうしたことを通じてノートに自分を書き綴るということをはじめたそうだ。そして本が学びの契機であり、同時に救済の拠り所であることに気がついたと言う。


女優である真行寺氏は、これまで自らの感性を磨くことにのみ専念してきたらしいが、さまざまな苦難に遭遇してはじめて知性とか理性にめざめたという実感がわいたそうだ。その言葉を聞いて、松岡氏が本のタイトルを『めざめ』と決めたらしい。
(真行寺氏の『めざめ』は、こんなふうに松岡氏に相談にのってもらいながら、6年あまりを費やしてようやくに完成に漕ぎ着けた本なのだそうだ。)


だから彼女は、本を書くことも読むこともコミュニケーションであり、筆者は個にして個にあらず、「私」は「あなた」でもある他己だと話された。この考え方には大いに共鳴した。
本を通じて誰もが「仲間」として連なっていく……これからじっくり本書を読んでみよう。果たしてどんな交感が待っているか、実に楽しみだ。


話が前後するが、個人的には、真行寺氏がルドルフ・シュタイナーマルセル・デュシャンを追いかけることからその思索をスタートしたという話に「あっ!」と驚いてしまった。私と妻は思わず顔を見合わせた。
なぜならシュタイナーについては、少し前に子安美知子さんの本でこのブログでとりあげたばかりだったからだ。(いや〜こんなことって、あるんだねぇ。ちょっと繋がりすぎて恐い気もするが。)


一方の松岡正剛氏はノヴァーリスの言葉からはじめて、白川静の漢字学を紹介しながら「興」と「蕾」の話をされた。(今回のイベントは松岡氏の白川静平凡社新書)の刊行記念も兼ねているのだ。)
で、「興」とは「思いを興す」こと。詩歌や歌謡において、歌い手や詠み手が何か思いをおこすとき、先行するイメージや言葉の動きの初動が「興」である。
また「蕾」はスポータであり、種から芽がでるときのように言葉が生まれる瞬間のことを言う。(ちなみにそのときの爆発をスポーツと言う。オリンピックもパラリンピックもとっくに終わってしまったけれど、そう、あのスポーツのことだ。)


松岡氏は、そのような「興」や「蕾」に向かって読み・書くことができれば理想的だが、その際に常に「真如依言」(コンテキスト・ディペンド)と「真如離言」(コンテキスト・フリー)という二つの考え方に巻き込まれ、苛まれると言う。なぜなら私たちは何か一つの言葉を選んだ瞬間に、その言葉に占有されてしまうからだ。
それをくぐり抜けるためには、西田幾多郎が言った「絶対矛盾的自己同一」のような場を設定しなければならない。


松岡氏は自分の体験でありながら自分の体験ではない場を設定し、そこに自らの読み・書くという行為を落としながら、千夜千冊や編集学校を続けてきたと言う。そして、そこには少数あるいは多くの自分ではない人がいる、と。(真行寺氏の言葉を借りれば、それこそが「仲間」と言えるのかもしれない。)


今回のお二人の話・発想に共通するのは、「原初にさかのぼって考える」ということだったように思う。自分や文字が拠って立ってきた原点に立ち返り、そこから今に戻って思いを巡らす。
そのことが本を読み、書くという行為なのだ。ただしそれは決して孤独な作業などではなく、「仲間」を見出す方法でもある。そう、未来に向かってともに歩んでいく「仲間」を、である。


今回は時間は短かったけれど、とても刺激的な講演会だった。お二人からはサインももらえたし、嬉しい一日だった。


めざめ―いのち紡ぐ日々

めざめ―いのち紡ぐ日々

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)