イメージと情緒

スポーツの世界では「イメージ・トレーニング」という言葉は定着した観がある。


でも「イメージ」って、なんだろうか?


手元の辞書を引いてみると「像」・「画像」・「映像」・「印象」・「表象」などの言葉が並ぶ。
私はこれまで漠然と〈言葉=概念になる前の観念〉という程度の理解をしていたが、辞書にはその「概念」も「観念」も両方載っている。困った……。
いずれにしろ、言葉ではなかなか説明できないのが「イメージ」なのだろう。


その「イメージってなに?」ということに1章を割いているのが、品川嘉也『イメージ思考読本』(天山文庫)だ。これはある本の参考文献に挙がっていたもので、ネットの古本で注文して買った。1989年の刊行である。
今でこそ、やれ「脳トレ」だ、やれ「右脳」だ、と叫ばれるようになったが、1989年という時点で「イメージ」ということを全面に取りあげているのだから、なかなか画期的な本だと思う。(第2章「左脳と右脳のメカニズム」には、その辺の事情が今と約20年ぐらいのタイムラグをもって縷々説かれていて、門外漢の私にも筆者の趣旨とは別の意味で楽しめる。)


さて筆者は、その肝心の「イメージ」とは「頭のなかに浮かぶもろもろの像」だと説明し、その主流は「視覚イメージ」と「聴覚イメージ」だと言う。ほかに多いのは「運動感覚のイメージ」で、これは自分の筋肉が動いているというイメージのことらしい。スポーツ選手がやっている「イメージ・トレーニング」とは、おそらくこれに関連したものだろう。
また筆者によると、作家は小説を書くとき、「人物像」というイメージを先に浮かべ、それを言葉に置き換えていくという作業をしているらしい。(まぁ全員が全員、そうではないだろうけど。)


それで面白いのは、パッとしたひらめきとかアイディアというのは、この「イメージ」から生まれることが多いということだ。
相対性理論アインシュタインなどは、考えるときは言葉はいらないらしい。たぶん言葉にならないものが、パッと頭に浮かぶのだろう。そしてあとからそれを丁寧に確かめながら数式とか論文に組み立てていくのだ。


これに似たようなことは私たちもたまに経験する。
ずっと解けなくて悩み続けた問題をポンッと放り出した途端、「あっ! そうか」と思うことが多い。
考えに考えているときは左脳を使っているときで、このときは論理的に理詰めで迫ろうとばかりするので、ある程度を過ぎると、停滞してしまうわけだ。
しかし何か別のことに気をとられたり、あきらめていったん考えるのを中断したときは右脳が働き、これまでとはまったく異なる解法の道筋がパッと開けたりするのである。


それに絡めて筆者は最近の日本教育はどうも左脳偏重に陥っていて、公式を暗記させるとか正解を求めるということばかりにとらわれすぎていると言う。ひるがえって、もっと右脳を強化する教育、「イメージ思考」を育む教育が必要だとも言う。
なるほど私も学生たちにはもっと絵や図を描かせ、写真や映画といった教材を利用すべきなんだろうと思う。(前にもこのブログで書いたが、個人的にはそういう工夫を授業でしているつもりなんだけどね。)


まぁ、すぐに教育プログラムに直結しなくとも、本書には「イメージ強化トレーニング」というものが載っているので、まずは自分を鍛えてみることだ。で、実際に効き目がありそうなら、教育に取り組んでいけばいい。
私が具体的にやってみようかなと思い、実践したのは「片鼻呼吸法」というやつで、これは片方の鼻を指で押さえ、息を吸いきったらいったん止めて、反対側の鼻を押さえてゆっくりと吐き出す、というだけのトレーニング。でも実際に行ってみると、効果があるような気がするから不思議だ。
どうも頭がすっきりしない、本を読んでいてもなかなか入ってこないというときは、ぜひ一度お試しあれ。


その読書をするにしても、左脳の処理能力はせいぜい一秒間に20〜30字程度らしいが、右脳の処理はもう無限に近いらしい。私たちはこの右脳を使わない手はないのだ。
将棋の名人・升田幸三は、電線にとまっている雀の数を一瞬で当てたらしい。筆者はそれは左脳ですばやく数えているのではなく、右脳で一瞬のうちに「イメージ」として「像」を捉え、あとから数えているのだと言う。なるほど、将棋の達人は何十手先を瞬時に読み、そして一齣を指すのだからそうした能力に長けていてもおかしくはない。


筆者の品川氏は京都大学医学部を卒業した生理学者らしいが、彼自身も119次元の空間を簡単に頭にイメージできるというんだから、やはりただ者ではない。
いくらなんでも、それはウソだろ? と思う人があるかもしれないが、それを聞いた湯川秀樹が「品川君とは受けてきた教育が違うからなぁ」と悔しがったというから、たぶん本当なんだと思う。(ここまできたら理屈じゃないんだろうね。)


興味深いことに、品川と同じ京都大学を卒業してフランスに留学し、その後、奈良女子大学で教鞭を執った岡潔も彼と同じことを言っている。岡は「多変数解析函数論」を専門とし、いわゆる「三大問題」を解決した大数学者だ。(もっとも岡の方が品川より30も年上だから、品川が岡の言葉を参照している可能性はある。)


品川の本はあいているすき間時間にちょぼちょぼと拾い読みしたのだが、岡の『春宵十話』光文社文庫)は、風邪をひいて病院の待合室で待たされているときにほとんど一気に読んだ。ちょうど微熱があったから、たぶん逆に左脳がセーブされて右脳の部分で瞬時に読めたのだと思う。(自分でも病院に来てまで本を読んでいるのはどうかと思うが……。)


岡は世界的な数学者・ポアンカレーの「数学の本体は調和の精神である」という言葉に共鳴していて、自身も「数学」は「自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つ」と述べている。
そして数学には数式や公式、計算というものがつきものだが、それが数学の本質ではないと断言する。これは今の教え子たちにも話したのだが、むしろ彼は数式や公式、計算といったものを使わない数学を目指したいとも言っている。
いやぁ、素晴らしいね。これが本当の数学で本当の学者というもんだろうね。計算が苦手で「俺は数学ができない」と思い込んでいる人にぜひ知らせたい言葉だ。


岡はよく人から「数学をやって何になるのか」と質問されると、「私は春の野にスミレはただスミレらしく咲いてるだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ」と答えていたらしい。彼はやはり「情緒」の人なのだ。
彼の好きな文学者は、芭蕉漱石、芥川だったらしいが、今、芭蕉をちゃんと読んでいる数学者なんているんだろうか。


どうも私たちは「勉強」ということを随分と勘違いしてきたようだ。
岡自身もそのことを心配していて、本書の後半ではやはり日本の教育の危うさを述べている。「情緒の中心がそこなわれると人の心は腐敗する。」昨今、頻発している無差別殺人はまさにこれだろう。
岡は春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなに大変なことか、今に気づくと警告する。(残念ながら、彼の予感は的中してしまったようだ。)


にもかかわらず、学校は未だにバンバン宿題を出し、家庭では子どもに珠算もピアノも習字も習わせ、おまけに学習塾にも通わせている。
岡は人間はすき間でこそ成長するのだと言う。すき間もなく埋め合わせたスケジュールでは、子どもの「情緒」は決して育たない。
岡はそれを憂えているのだ。なぜなら彼こそ「数学」は理詰めの左脳だけでは解けない学問であることを知悉していたからだ。


私たちは右脳の「イメージ力」をアップするためにもまずは「情緒」を育まなければならないのだろう。
(でも世間は、そのことからますます離れていってしまっているね。)


イメージ思考読本 (天山文庫)

イメージ思考読本 (天山文庫)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)