一対にひそむパラドックス

先々週、部活の遠征に行って以来、疲れがとれない。おまけにこの暑さで、さすがに夏バテ気味だ。
ブログの更新もすっかり遅れてしまった。


ここ最近、読んだのは(1)内田樹『先生はえらい』ちくまプリマー新書)と(2)松村一男『この世界のはじまりの物語』白水社)の2冊。


(1)は先の遠征中、バスや電車のなかで一気に読んだ。内田氏の文章は実に読みやすい。売れっ子になるのもわかる気がする。
内田氏の本は他にもいくつか読んでいるが、仕事柄、彼の教育論・若者分析には共感するところが多い。


内田氏の発想の特徴は、パラドックスにあると言ってよい。世間一般の常識的なものの見方とは常に逆の方向へ論旨が進む。それでいて彼は哲学者らしく、論理的に説得力をもって議論を積み重ねていくから、読者もぐんぐん内田ワールドへ引き込まれていく。


だいたい著述家が世間と同様、当たり前のことを言ったって、面白くもなんともない。(テレビのコメンテーターにはこの手の輩が多い。)他人と違うことを言ってこそ、売文家の面目躍如なのである。
内田氏はそうしたことにかなり自覚的な気がするのだが、果たしてどうだろうか。


本書はタイトルからしパラドックスだ。
今どき、えらい先生なんているの? (大分じゃないけれど)教員や管理職の不祥事は相変わらず続いているし、先生なんて大したことないよ……なーんて思ったあなたは、たぶん内田ワールドにスッポリはまる。


内田氏はまず「はじめに」で「運命的必然」としか思えないような人が「先生」だと言う。
だから逆に言えば、「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しないことになる。したがって、僕は「いい先生」に巡り逢わなかった、「先生運」が悪かった、などと言う人は根本的に間違っている。
つまり「先生」は自分で探し出すものなのだ。(そういう意味で「先生」は「恋人」に似ている。この「先生」の良さは私にしかわからない! っていう感覚だ。)そこに学ぶ側の主体性が関与してくる。自ら学ぼうとする姿勢のない人の前に「えらい先生」が現れるはずはない。


では弟子たちは、「えらい先生」のいったいどこに震えるような敬意を感じるのか。
内田氏は、「先生には到達できない境位がある」という弟子たちの感覚こそが、その答えだと言う。
いや、もっと俗に言えば、「謎の先生」が魅力的なのだ。


内田氏はそうした人物をキャラクター化した作家として夏目漱石を挙げる。
たしかに漱石は、どこか「満たされない経験」をして「わけのわからないおじさん」に変貌してしまった人物を執拗に描いた。
国語の教科書で読んだはずの「こころ」もそうだ。あの作品では「先生」ではない「先生」が登場する。でもだからこそ、「先生」なのだ。


ここには教育の、あるいはもっと広くコミュニケーションそのものの、ある種のパラドックスが胚胎している。
明治期、日本の近代化に際し、漱石はそうしたパラドックスに鋭敏だった。いやむしろ、そういうパラドックスを抱えてこそ、近代という新しい時代が幕を開けるのだ。
今日の教育社会は、そうしたパラドックスを覆い隠し、捨象しようとする。だから教師も生徒もいたたまれない。自らのやり場に困るのだ。


「嘘も方便」。「本音と建前」。嘘も建前も大事なのである。
内田氏の本書はそうした観点から読み解くと、単なる教育論を超えて、現代にとって実に有益な多くの示唆を与えてくれる。


さてそんな感心から(2)『この世界のはじまりの物語』を振り返ってみると、そもそも世界そのものがやはりパラドックスに満ち満ちていることに気づかされる。
本書はたまたま千葉の本屋で見つけ、今わたしが関わっている極秘プロジェクトの参考図書になりそうだと思って買った。安い本だが、図版が多く、実に嬉しい。


著者の松村一男氏は、比較神話学・宗教史が専門の大学教授。文章は決して難解ではないが、どうもわたしとは相性が悪かった。何度もつっかえつっかえしながら、ようやく読み終えたという感じだ。ずいぶんと時間がかかってしまった。
本書は大きく「世界のはじまり」・「人間のはじまり」・「文化のはじまり」の三部構成になっている。日本だけでなく、世界中の神話や宗教が俎上にのせられていて興味深い。
そうして見てみると、不思議なことに世界の成り立ちは、洋の東西を問わず「混沌から秩序へ」、「大きなものから小さなものへ」という共通した流れを汲んでいることがわかる。


これは一体どうしたことか?
世界中の神話に共通した要素や話型が見出せるということは、はじめにそれぞれの地域に世界があって、その世界にあわせて人類の生活や文化が育まれていったのではなく、何かわたしたちの脳にあらかじめインプットされているような世界観があって、それを物語化することで現実の世界を構造化していったと考える方が自然ではないのか。


先に世界がパラドックスを孕んでいると言ったのもこのことである。
学生の前に先生がないように、人類の前に世界はない。世界は天と地、神と人、生と死といった二項が一対(ワンセット)となってはじめて動き出す。


内田氏によると、ラカンは「人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている」と述べているらしい。
「教える者」と「学ぶ者」もやはり一対(ワンセット)なのである。


そしてもっと言えば、そうした問題の核心は、おそらくその一対の軸と反転の構造にこそあるはずだが、今夜はまだその解答の準備には至っていない。いずれどこかでまとめることにしたい。


大切なのは世界がはじまったから物語があるのではなく、物語のはじまりが世界のはじまりであるということだ。
「学ぶ者」が学ぼうと思ったとき、「教える者」は賢者となる。


うーむ。このパラドックスが哲学なんですね、ウチダセンセイ。


先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

この世界のはじまりの物語 (地球のカタチ)

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