アーティストとサイエンス

今週は出張だの用事だので、あちこちと出かける機会が多かった。
となると、なかなか本を読む時間もとれないのだが、移動中の乗り物は案外、格好の読書空間ともなる。本と乗り物って、相性がいいんだね。(どちらも何かを運ぶものとも言えるしね。横光利一じゃないけど「文学は乗り物に乗って」だ。)


今回は前回に引き続いて、押井守を取り上げよう。
映画「スカイ・クロラ」公開のタイミングに合わせてか、先日、幻冬舎から『凡人として生きるということ』幻冬舎新書)が発売された。私は映画とは別にたまたま新聞の広告で知り、ふと立ち寄った本屋で見つけ、帰りのバスの中でほとんど一気に読んだ。


押井監督というと、今や押しも押されぬ超一流映画監督というイメージだが、実際には(本人が言うには)大ヒット映画というものはないそうだ。どれもそこそこの興業に終わっているらしい。
それでもあくまで自分の作りたい映画にこだわり、地道に制作を続けてきた。(もちろん若い頃には数々の失敗もあったそうだが。)おそらくそうした自らの人生経験が「凡人として生きる」というメッセージへ結実したのだろう。この言葉は見事に今の時代にマッチしていると思う。


押井は「若さ」なんかに価値はない、「オヤジ」になろうと言う。
すでに「オヤジ」になっている私としては大変力強い、有り難い言葉だ。ただし押井の言う「オヤジ」とは「世間のデマゴギーにふりまわされない大人」という意味で、「ちょい悪オヤジ」なんてチヤホヤされているようでは失格なのだ。
「オヤジ」は流行なんか追っかけない。「融通無碍に生きる術を身につけた自由人」こそが「オヤジ」なのだ。


では「自由」とはいったい何か? 
押井はそれを逆に「不自由」から考える。彼は「不自由」とは「結婚」であり、「子供」であり、「他人の人生を抱え込む」ことだと言う。だから、会社の社長なんか「不自由」きわまりない身分ということになる。
でも同時に、押井は他人から必要とされていない人間が「オレには自由がある」と叫んだところで、虚しい繰言にしか聞こえないと断言する。つまり「自由」とは「不自由」をも抱え込んだ「生き方の幅」のことであり、「自在」と同義なのだ。
そこから押井は「すり寄る子犬を抱きかかえよ」と主張する。「外部のモノを自分の内部に取り込むこと」を拒絶してはダメなのである。(私はここのところを「偶然」を「必然」に変える、と表現することにしている。)


本書の後半は、セックス・ロリコン・引きこもり・アキハバラ・アニメ……という、いかにもオタクたちが喜びそうな話題が続くが、まぁこれは読者へのサービスの部分だから省略しよう。押井のメッセージは大半、上に書いたことに尽きる。
ただ押井が自身と宮崎駿の関係を〈建前の宮崎/本音の押井〉と分析している下りはちょっと面白かった。(これも前半に出てくるのだが。)
それと「あとがき」で押井が述べている「この世界は模倣で満ちている」という感覚は、いかにもアニメーターらしいが、最近の私の関心とも重なるところで、ぜひ1章分を割いてほしかったなぁと思う。


さてもう1冊は、竹内薫『世界が変わる現代物理学』ちくま新書)。
これも出張中のバスの中で、あらかた読んでしまった。私はバリバリの文系人間だが、時々こういった理系の本を読むことにしている。すると、すごく面白い。いろいろ参考になることもたくさんある。ぜひ自分の専門と違う分野の本をたまには手にしてみるべきだ。
と言っても、本書は一般素人向きにやさくし「現代物理学」を説いてくれていて、実に読みやすいし、わかりやすい。「物理」なんて言葉を聞いただけで虫酸が走るという人もこういった本から入ってみるとよい。オススメだ。


本書を読んでみるとすぐにわかることだが、最先端の科学は、なんのことはない、文系人間の空想とたいして変わらない。いやもっと言えば、押井監督のアニメとほとんど変わらない。(本書の竹内は、そのことを「SF的世界観」と呼んでいる。)


ここから先はあまり難しい話に踏み込まないようにして、私がなぜそのように感じたかを拾っておくことにしよう。


竹内は物理学は「モノ」から「コト」へ発展していると言う。
「モノ」とは「意味のネットワークの一つの「交叉点」(=結節点・ノード)だけに着目したときに見える世界 」のことであり、「コト」とは「意味のネットワークの全体的な「つながり」こそが本質であることに気づいたときに見える世界」のことを言う。


ニュートン力学を経たアインシュタイン相対性理論シュレディンガーの猫を踏まえた量子論……こうした流れは、いずれも実在論(モノ的世界観)を準備し、実証論(コト的世界観)への橋渡しを行った。そしてそのバトンを受け取って、実証論のトラックを駆け抜けたのがボーアであり、ハイゼンベルクであり、ボルン、ホーキング、ファインマンあたりのランナーだった。
先にも触れておいたように、筆者はこうした潮流を「SF化」と呼ぶ。(ちなみに筆者の竹内は「湯川薫」というミステリー作家でもあり、本書にはおまけで短編小説「事象の地平線」がついているのだが、正直これはあんまり面白くない。竹内さん、ゴメンナサイ。)


ようは科学が進めば進むほど、世界は確実なものからどんどん遠ざかり、相対的に、不確定的に重ね合わせされていき、主観とも客観とも区別のつかない〈間主観性〉とでも呼びたくなるような領域が立ちあらわれてくるということだ。
つまり世界は、実は何が「現実」で何が「虚構」か、ということが(素人が考えているほどには)判然としていないのである。


そのことを筆者はピカソキュビズムにたとえる。ピカソの〈アヴィニョンの娘たち〉は「複数の視点」を持ち込むことで、「平面」の世界から「立体」の世界へと表現の幅を広げることに成功した。あれが「現実」の世界と違うとは誰にも言えない。(ところで最近の学生はピカソの絵なんてちゃんと見てるのかなぁ。怪しいなぁ。)
〈コト的世界観〉とは、(具象画ではなく)このような抽象絵画に似ている。(実際にアインシュタイン相対性理論の論文を書いていた時期とピカソキュビズムの世界へと転換をはかる時期は、奇妙なことに一致しているのだ!)


ではでは今後、世界はどのような変貌を遂げていくのか? 残念ながらアインシュタインの重力理論と量子論を統合した理論は、今のところ完成していない。が、筆者は本書の後半で、その有力な2つの候補として「超ひも理論」と「ループ量子重力理論」を紹介している。
その内容はやはりなかなか難しいのだが、予測される最終的な結論はこうだ。すなわち時空は「ノードとリンク」という抽象的なネットワークの総体に還元されてしまう、ということ。


ね、押井が「子犬を抱きかかえるオヤジになれ!」と言っていたことと似てるでしょ?
そして驚くべきは竹内も「おわりに」で、人間の脳は「世界の構造を真似る」のが仕事だと述べていることだ。
脳は知らず知らずのうちに「世界の構造」を写し取っていて、その脳が物理学という道具を駆使して、今の「世界の構造」を明らかにしようとしているのである。
そういう意味で「現代物理学」は実は「神話」の世界に最も近い。なぜなら、古の人々が世界はこうして作られている、と考え抜いたことを構造化したものこそが「神話」にほかならないからだ。


「真似」や「模倣」のことをギリシア語では「ミメーシス」と言う。
私は最近、世界は幾重にも折り重なった「入れ子」状になっているのではないかと感じているのだが、それを探るヒントがこの「ミメーシス」にある。


「臨書」「遠野」「押井」「物理学」……すべてはつながっているね。


凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

世界が変わる現代物理学 (ちくま新書)

世界が変わる現代物理学 (ちくま新書)