〈かなしみ〉を資糧に

宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」は、正式に発表されたものではない。晩年、賢治が病床で使っていた黒革の手帳に走り書きされた草稿に過ぎない。
先月、花巻の宮沢賢治記念館を訪れた際、この黒革の手帳がそっくりそのままレプリカされていたので、ちょっと高かったけど、衝動買いしてしまった。林風舎から出ている『抜粋復元版 宮沢賢治雨ニモマケズ』手帳』だ。なかなかよくできている。


賢治は横罫の入っている手帳を線をまったく無視して、おしりの方から縦書きにしている。ところどころ赤や青の色筆を使っているところがあるが、おおかたは鉛筆書きである。(もしかしたら、シャープペンシルかもしれない。)書き付けている言葉は「南無妙法蓮華経」など経典の言葉と詩片、化学記号のようなものが多い。字句を訂正したり、上から重ね書きしているところもあり、判読しづらいページも何カ所かある。もっとも復刻版には、ちゃんと「読み解き」がついているので、それと見比べればきちんと読めるのだが。(最近は大学生でも「ノートのとり方がわかりません」と訴えてくるらしいが、作家や詩人たちのこうした手稿を目の当たりにすれば、そうした質問の馬鹿さ加減がよくわかると思う。)
雨ニモマケズ」は、比較的大きな字で例外的にまとまって書かれている。


手帳の巻末には付録の「略年譜」があるのだが、それを見ていて愕然としてしまった。いや本当はうすうす勘付いてはいたのだが、今年、自分はとうとう賢治が亡くなった年に追いついてしまった。命日は9月21日だから、私が賢治なら、あと一週間しか時間がない。あと一週間で何ができる? 自分は果たして今まで何をやってきた? 
もう一度自分の人生を考えなおす岐路に今、自分は立っているような気がする。


周囲の賛同が得られ、協力者がうまく見つかれば、私にはやってみたいことがある。果たしてそんなことで本当に生活していけるのか、まったくもって自信はないのだけれど、まぁ最期は野垂れ死にでもいいや、と思い始めている。
その夢の具体的な構想はまだあかせないけれど、賢治の「羅須地人協会」を一つのモデルにしたいとは考えている。(すでにそうした実践をしている団体もあるようなので、いつか時間を見つけて見学にも行ってみたい。)とにかく今はそのための勉強と精神修養、そして仲間作りをしたいのだ。


その宮沢賢治も関係しているのだが、前々から読もう読もうと思って、ほったらかしにしていた本がある。竹内整一『〈かなしみ〉と日本人』(NHK出版)だ。
これは2007年4〜6月にかけて放送されたNHKラジオ第2放送のテキストである。残念ながら、私はその放送を聞き逃しているのだが、まぁテキストだけでも読もうと思って買ったはいいが、どうにも筆者の呼吸と馬が合わず、ずっと行きつ戻りつしていたのだ。ただ今回は気分が本書にマッチしたせいか、少し我慢してなんとか読了することができた。


筆者は東大大学院の先生らしく、倫理学・日本思想史が専門のようだ。本書の内容にも関係しているのだが、21世紀COEプロジェクト「死生学の構築」の世話人でもあるらしい。
私は一応、近代文学の専門家だが、興味関心は筆者ときわめて近い。それはひと言で言えば、タイトルにあるように、人の感じる〈かなしみ〉の感覚に迫りたいということだ。
果たしてそんな研究が成り立つのか、よくわからないが、本書が私を後押ししてくれたことだけは確かだ。


本書には宮沢賢治をはじめ、国木田独歩田山花袋志賀直哉正宗白鳥など、私の研究領域にも関連する実に様々な文学者が取り上げられている。いやいや文学者だけでなく、〈かなしみ〉を捉える筆者のまなざしはとても広い。倫理感情としての〈かなしみ〉、宗教感情としての〈かなしみ〉、無常感としての〈かなしみ〉など、問題にすべきフィールドは一通り網羅されている感じだ。


本書によると、〈悲しい〉という言葉は、もともとやまと言葉の〈かなし〉から来ている。そのカナは「……しかねる」のカネと同根で「力が及ばず、何もすることができない」状態を言う。たとえば大伴旅人は、次のように詠んでいる。

世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり

妻を亡くした時の歌だ。


しかし〈かなし〉には、現代にはない意味もあって、たとえば『伊勢物語』には「ひとつ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり」という用例がある。
これは「ものすごくいとしい」という意味で、「どんなにかわいがってもかわいがりきれないほどにかわいい」という〈かなし〉なのである。漢字で書くと〈愛し〉と綴るのだが、この言葉にも「……しかねる」という、ある届かなさが根底に胚胎している。


フロイト精神分析用語に「悲哀の仕事」という考え方がある。
大切な人を失った時など、〈かなしみ〉をきちんと〈かなしむ〉ことができていないと、精神的な支障を来す、というものだ。
〈かなしみ〉というと、現代人はどうもマイナスのイメージで捉えがちだが、さすがにフロイトは〈かなしみ〉の本源に迫っているように思う。


〈かなしみ〉が一種の〈救い〉ともなるという発想は、柳田国男綱島梁川亀井勝一郎、大西克禮、あるいは親鸞本居宣長にも共通する。
その宣長は「もののあはれ」論を展開している。「あはれ」というのは、「ああ、はれ」で「ああ」も「はれ」も、両方とも間投詞・感動詞である。ようするにものごとにふれて「ああ」と感ずること、「はれ」と思うことが「あはれ」なのだ。
その「あはれ」の感覚を物語に埋め込んでいったのが、ご存知、紫式部の『源氏物語』である。私たちは1,000年以上の時を経てその物語を読むことで「もののあはれ」を知り、その感覚を共有している。


非常に大雑把だが、本書をかいつまんで、私が導き出す提案はこうだ。
〈かなしみ〉というものをまずは私たちもストレートに表現してみよう。表現することができれば、安心も得られるし、必ずどこかに共感してくれる人がいる。
〈かなしみ〉を見て見ぬふりをしたり、無理に押し殺したりしようとするから私たちは苦しいのではないか。泣きたいときは泣けばいいのだ。


最後に本書に紹介されている詩を引用しておこう。私も好きな八木重吉の詩だ。

このかなしみを
よし とうべなうとき
そこにたちまち ひかりがうまれる
ぜつぼうと すくひの
はかないまでのかすかなひとすぢ
(「詩集 幼き歩み」)