「場」のしつらい

katakoi20082008-10-20



一昨日の土曜は待ちに待った講演会だった。
「2008 場のアーツコミュニケーション 共存在の深化―出会いから共創へ―」と題し、早稲田大学で清水博氏と松岡正剛氏の「出会いトーク」が行われた。


清水氏は東京大学薬学部教授を経て「場の研究所」を設立。現在は大学を退官し、研究所の所長を務める。専攻は生命関係学と場の生命論という異色の科学者だ。
「場」とは、家庭や職場、市場のように人々が生活する舞台のことを指すが、清水氏は講演では「自分の生命を表現するところ」と説明された。また「アーツ」は「美」に繋がる概念であるが、その「美」とは「他の生命に働きかける運動」であり、したがって「アーツ」とは「互いの生命を輝かせていくこと」だと定義された。そしてその可能性を探ることが「共存在の深化」ということになる。


うーん、のっけから難しい。かつてこんな科学者がいただろうか。でもこれが本当の科学なのかもしれない。
松岡氏の話では、寺田寅彦湯川秀樹野尻抱影クラスの科学者は、皆科学にこんなイメージをもっていたようだ。ここまでくると、科学なのか哲学なのか文学なのか、あるいは宗教なのか、もはや判然としない。
大学をはじめ、日本の教育・研究が行き詰まってしまったのは、一つには学問領域を専門に分化しすぎたせいだろう。私たちはもう一度、細分化する以前の段階に帰ってみるべきで、その一つの視点というか、方法が「場」なのである。


清水氏は「場」を「自分を一員として、その自分を含めた部屋をスケッチする」というイメージで語る。部屋の中央には真っ白なキャンバスが置かれ、絵筆を持って立っている自分がいてまさに自らの部屋を描こうとしている。しかし、事はそう容易ではない。
なぜなら自分が自分の部屋の絵を描いたら、そこにはもう白いキャンバスはないからだ。とすると、キャンバスには完成されつつある絵が描かれていなければならないが、それは常に少しずつ遅れていく。つまり永遠の鼬ごっこに陥ってしまうのだ。
こうなると一体どこまでが自分でどこまでが自分でないのか、よくわからなくなる。これを西田幾多郎は「主客非分離」と呼んだ。しかしこれこそが自分なのだ。自分は自分としてあるのではない。「場」とともにあるのである。


清水氏はそうした自己のモデルが重なり合うことで、コヒーレントな「場の共有」が進むと言う。
「場」は卵を入れる器のように、ある程度は自分で選択したり、作り出すことが可能で、「場」における生命のドラマは即興劇にも喩えられる。この場合、拘束条件としての「場」は、自己と観客の相互作用によって生み出される舞台となる。大事なのは、そうした舞台を設えつつ、どういう「場」において自分をどう表現するか、だ。(わかるかな? 結局はいつもここに帰っていくね。つまり他とともに「場」をつくることが先決ということだ。話はさらに横道にそれるが、松岡氏は講演の最後で本当に教育のことを議論したいのなら、まずは全ての大学を解体せよと道破された。これにはちょっと感動した。)


清水氏は「生命のドラマ」には「願をかける」ことが大切だという。なぜなら「場」と「美」を繋げるのが「願」であり、「意識」であるからだ。ここら辺はベルグソンの哲学に由っているらしいが、これはもう宗教の世界と言ってよい。


アメリカをはじめ、今市場はガタガタで、単なる等価交換の悪循環に陥っている。これを関与者それぞれの存在価値をあげるように深化させるには、どうしたらよいか? 清水氏はそこには「出会い」が必要だと言う。関わり合って互いに考えたことを表現することが大切なのだ、と。つまりは「願」が必要なのだ。


いや〜実際、そんなことで大きな資本に太刀打ちできるのかと思う。
今回、清水氏の話でもっとも感銘を受けたのは、「残念ながら、世の中の矛盾は完全には解決しない」と明言されたことだった。それでも異質な人が出会い、問題を共有し、一緒になって議論していくことが大切なのだと主張された。
また清水氏が〈かなしみ〉ということをもとに「生命」を捉えようとされていることにも共感した。(このブログでも紹介した竹内整一氏の考えに言及されていたのは感慨深いものがあった。)


松岡正剛氏もやはり解決そのものには興味がないと断言された。むしろ「場」と「意志」をつなぐ「間」をこそ重視すべきだ、と。「間」にある〈しつらい〉や〈ふるまい〉、〈もてなし〉というのは、お客さんにお茶を出して「どうぞ」って、ちょっと手を添えるような微妙なアペンドがミソなのだ。
そのためには私たちはもっともっと繊細でなきゃならない。


講演会終了後、真行寺君枝さんによるダンスパフォーマンスが行われた。こちらは私には講演内容よりももっと難解だった。