勉強の秘訣


中間試験の採点やら成績の処理やらでずいぶんと更新が遅れてしまった。
それにしても学生たちの出来の悪さには愕然とする。だいたい、ふだん授業中にきちんとノートをとらないからこうなるのだ。試験前にノートを見直すだけで、確実に10点はアップするのに。


ということで、今回はいま話題の太田あや東大合格生のノートはかならず美しい文藝春秋)を読んでみた。受験生のみならず、プレゼンに苦戦する大人たちにも結構読まれているらしい。どのぐらい話題になっているかというと、私が通っている床屋のお姉さんが、私が手にしている本を見て「あ、それいま話題のやつですね」と言うぐらい話題なのだ。
私自身は、そんなに話題になっているということすら知らなくて、たまたまつけていたテレビで紹介されていて、はじめて知ったのだった。「へぇ〜そんな本があるのか、学生たちに教えてやったら、彼らの成績も少しは伸びるかなぁ。」
前にノーティングについては書いたことがあったと思うけれど、それだけ日本人はノーティングが下手で、そのため関心が高いということだろう。


で、肝心の中身だが、本書は実際に東大に合格した受験生の高校時代のノートを豊富な写真で紹介し、その傾向を分析したものだ。タイトルにあるように、たしかに東大に合格した受験生のノートは美しい。
筆者の太田あやさんは、ベネッセコーポレーションの『進研ゼミ』の編集に携わり、2006年からフリーとなったライターらしいが、彼女が言うには、東大に合格した人のノートには「7つの法則」があると言う。名付けて「と・う・だ・い・の・お・と」

「と」…とにかく文頭は揃える
「う」…写す必要がなければコピー

以下は省略ね。(気になる人は書店で立ち読みしてね。立ち読みはダメか?)
ブログで全部を明かしたら、ちょっとまずいかなと思ったからではなく、まぁ全部を明かさなくてもなんとなく察しがつくでしょ、と思ったから。(だいたい「と」が2つもあるし、ちょっと無理があるよねぇ。)
いちばん大事なのは「「お」…オリジナルのフォーマットを持つ」、だけかな。いや結局はこれに尽きるよね。勉強なんて、結局は自分でやり方を工夫するしかないんだ。
最近はコンテンツばかりが云々されるけど、それをどうやって取り出し、ストックし、ハンドリングしていくか、ということにこそ心血を注ぐべきだと思う。ノートはあくまでその一端だ。


「とうだいのおと」は確かに美しい。みんなきれいに書いている。でも私の第一の感想は「あーだから東大生はダメなんだな」ということだ。これは秀才のノートですよ。決して天才のノートじゃありません。
本書を読んで感心している人がいたら、ぜひ東大に合格できなかった南方熊楠のノートを見てみてほしい。紙片を埋め尽くす細かな文字の群れに圧倒されるはずだ。夏目漱石もしかり。宮沢賢治はびっしりタイプではないけれど、罫線なんて平気で無視して曼荼羅を書いている。(前に紹介したね。)それがやっぱり天才のノーティングだ。つまり型にとらわれない、ということだ。
成績で伸び悩んでいる人がいたら、「これがいい!」なんてひとつに決めないで(つまりは型にとらわれないで)、時と場合によって、ノートのとり方を変えるということをしてみてはどうか。筆記用具を変えるだけでも気分が変わるよ。


天才と言えるかどうか微妙なところだけど、わが書斎の本棚に石川啄木の『悲しき玩具 直筆ノート』(盛岡啄木会)というのがあった。どこでどう買ったのか、はっきりと覚えていない。たぶん盛岡を旅行したときに買ったのだろう。
で、その石川啄木の直筆ノートを見ると、やはり決して美しくはない。熊楠、漱石ほどではないけれど、かなり乱雑に文字が踊っている。ところどころ修正も施されている。でも何らかのひらめき、インスピレーションを受ける時というのは、こうなんだと思う。「美は乱調にあり」だ。


時代閉塞の現状」が続いているせいか、最近、急に石川啄木が気になりだした。(このあいだの試験範囲だったからかな?)そんなおり、朝日文庫から初版本を底本とした『一握の砂』が出て、「あ!」と驚いてしまった。
石川啄木と言えば、短歌の三行書きが有名だけれど、問題はなぜ啄木が三行書きにこだわったのか、ということだ。朝日文庫の編者を務めた、啄木研究家・近藤典彦氏は、東雲堂から1910年に出版された初版本にその答えがあると言う。すなわち、啄木は二首一ページ、四首見開きで短歌を読ませることを企んでいたと言うのだ。それはあたかも連続する三行詩であるかのように、小休止をはさみながら、連なっていく断片(フラグメント)の集積なのだ。啄木はその配列を緻密に計算に入れて、編集を施しているらしい。うーん、やっぱり天才かも。


でもこのブログで本当に紹介したのは、枡野浩一『石川くん』集英社文庫)のほうである。(授業の延長のような話じゃつまらないものねぇ。)『石川くん』は、かなり笑える啄木の入門書。イラストも面白い。
筆者の枡野浩一は、今も活躍する現代歌人。その彼が、石川啄木の歌を現代語に置き換え詠みかえながら、啄木の生涯をたどり、彼の思索を追跡している。それもかなりのレベルだ。もともとは糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された企画だったようだ。だから大変に読みやすいし、笑える。


枡野の手にかかれば、啄木の歌はこんなふうに変わる。有名どころを2つ、引用しておこう。

がんばっているんだけどな
いつまでもこんな調子だ
じっと手を見る

(はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る)

ふるさとのなまりはいいな
人ごみにわざわざ行って
耳をすました

(ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく)

また枡野の手にかかると、石川啄木は「石川くん」になり、金田一京助に借りた金を確信犯で返さない「執念ぶかい、ずるい、大きなうぬぼれのある、やらしい男」になり、奥さんがありながらいろんな女の人といちゃいちゃするエゴイストになったりする。


本書を読むと、石川啄木のイメージが一変する。啄木って、なんてひどい奴だ!
国語の授業で「つまんないなぁ」と単なる板書マシーンになっているそこの君! ぜひ本書を手にしてみてほしい。巻末の肖像写真もかなり笑えるゾ。私は何度見ても、ふきだしてしまう。いやホントに。


枡野はプロの歌人だけれど、彼のやったことを見れば、結局、私たちがなすべき勉強というのが、いったい何なのかが見えてくる。つまり、私たちはインプットした情報を自分の言葉に置き換えてアウトプットする以外にないということだ。
そこに積極性を見出すとき、ノートは美しかろうが、乱雑であろうが、かけがえのないオリジナルなOSとなる。
問題はそういう姿勢で私たちが日々ノートに向かい、ペンを握っているかということだろう。


今日はこれから出張なので、今回は短めにこのへんで。


東大合格生のノートはかならず美しい

東大合格生のノートはかならず美しい

石川くん (集英社文庫)

石川くん (集英社文庫)