引き算をしてひとり


今年の正月は鎌倉の長谷寺で写経を体験した。夫婦そろって、黙々と2時間ちかく般若心経を小筆で書写した。写しているうちに周囲のことが気にならなくなり、自分ひとりの世界にどんどんと没入していった。(修行が足りないせいか、最後は足が痺れてしまったけれど。)


晦日にはヨガの話を書いたけれど、ここ最近、妙に神秘的・宗教的な世界に惹かれてしまう。(年をとったせいかな?)
それで年末、ショッピングのついでに立ち寄った小さな本屋で境野勝悟『道元「禅」の言葉』(知的生きかた文庫)がふと目にとまり、ふだんはこういう人生教訓を押しつけてくるような本は買わないのだけれど、そのときはやっぱり妙に気になって、パラパラとめくってみたら、「79 月を見上げる(満月をき闕せり―仏性)」なんていう言葉が出てきて、「あ、これなら読んで損はなさそうだな」と思い、結局買ってしまったのだった。


そしてこの正月、帰省からUターンする新幹線のなかで一気に読んだ。


道元(1200〜1253)は、もともと貴族の生まれだが、幼くして両親を亡くし、無常を痛感する。その後、貴族社会の欲望や人間関係のしがらみの虚しさを知り、出家のために比叡山に登った。13歳だった。しかし彼はそれでも満足できず、24歳で中国・宋にわたり、如浄(にょうじょう)禅師に出会って、「仏とは、まさに日常生活の自分の中に生きている」ことを発覚する。


道元が著した『正法眼蔵』90余巻は難解で知られ、読み通せた人はほとんどいないそうだ。
本書はその道元の教えでもっとも肝心な点を筆者である境野氏がピックアップし、わかりやすく解説した本である。
ちなみに境野氏は鎌倉の近くにある私立栄光学園で18年も教鞭をとってこられた(国語の?)先生で、1973年には大磯にこころの塾「道塾」も開設されたという人らしい。
栄光学園と言えば、毎年何十人もの東大合格者を輩出する超有名エリート私立校だ。こういう進学校でこんな先生が活躍されていたというのは、なんだかとっても大事なことのような気がする。学力低下が叫ばれ、それ統一模試だ、やれ成績公開だと右往左往している世の連中にこそ、筆者と本書を知ってもらいたい。


さてその内容だが、本書には3章に分かれながら、全体で1〜100までの教えが説かれている。その逐一を追っている余裕はないので、なかでも私の心が動いたいくつかを紹介しておきたい。

4 命の姿を感じる(洗面は仏祖の命脈なり―洗面)

顔をきれいに洗うとか、歯を磨くとか、常に身ぎれいにしておくとか、ドリフのカトちゃん(古いか?)みたいな教えが最初の方にいくつか出てくる。が、私にはこれが妙に新鮮に感じられた。と言うのも、私たちはふだんそうしたことを当たり前にやりすぎていて意識することがないからだ。


道元の教えには、「自分」の心身を見つめ直すということが基本にある。自分にない知識や常識を他者から学んで知ることを「学知」と言うそうだが、道元は「自分を自分が学習する」ことが大切だと説く。一歩自分の内側へ退く、自分の内側を見る、こちらを「生知」と言う。私が写経しながらちょっぴり感じた没頭もこの「生知」に近いのかもしれない。(「学力低下」を云々している輩のレベルが、これで知れるよねぇ。「学力」って一体何ですか?)


この「生知」さえマスターすれば、一見何の意味もない次のような行いの意義がすんなりと理解されてくるのではないだろうか。

32 「目標」を捨ててみる(不思量にして学道す―身心学道)

35 試しに息を止めてみる(不思量底を思量する―坐禅箴)

87 五感を「感じる」(凡夫かつて不覚不知なり―発菩提心

いずれも周囲にとらわれず、「自分」を見つめ直す手段だ。

他には「73 「こうなりたい人」の真似をする(一器水潟一器―行持・上)」「97 一歩引いて見つめてみる(修禅定―八大人覚)」などもよい。


まぁこの辺でいいだろう。32といい、97といい、これらの教えには〈引き算〉の発想が潜んでいる。これ、いまの日本に一番足りないものだ。〈負〉の思想と言えばいいだろうか。だいたい、国も人生も常に右肩上がりで富んでいくばかりではないのだ。


それを人生にひきつけてわかりやすく説いてくれたのが、美輪明宏『ああ正負の法則』PARCO出版)である。これも正月に読んだ。(ずいぶん前に買ってあったのだけれど。)
筆者についてはテレビでお馴染みだからいいだろう。彼(?)は、序文で「この本は、地球大学のつまり人生のカンニングペーパーです」、「実はこの広大無辺の宇宙の中で、地球だけが、陰と陽、−と+、負と正、等々という相反する二つのもので成り立っているのです」と言う。美輪はそれを「正負の法則」と名付ける。


先に道元の教えを見てきたから、美輪のこの考え方は受け入れやすいのではないだろうか。いや、逆か。むしろ一見当たり前すぎるような、平凡な美輪の言葉に深みが増して感じられるのではないだろうか。
つまり、現代人はあまりにも〈負〉のことを忘れすぎてしまっているということだ。私たちは先へ、上へ、明るみへ、富へ、正義へ……と〈正〉の方向ばかりに向かいすぎているのである。
三輪は「努力」や「苦労」(負)をしなければ、「現在」はないと言う。一流のプロフェッショナルこそ、そうした陰の「努力」を怠ってはいない。先に〈負〉があるから〈正〉があとからついてくるのだ。


恋愛も同じ。〈幸福感〉〈安らぎ〉〈快楽〉……の裏側には、〈嫉妬〉〈不安〉〈苦しみ〉……などがくっついている。
美輪は、だから「こよなく自由を愛する人は、結婚には向きません」と断言する。「我慢強く」「あきらめやすい人間」だけが結婚する資格があり、「同じ献立の料理を数十年食べ続ける趣味のある人のみが健全な夫や妻だと賞賛される」と言う。(なんだかこの言葉はグサッと突き刺さる。私は完全に結婚に不向きのタイプではないか!)
恋愛や結婚と言えども、〈正〉ばかりではない。人は夢のみには生きられないということだ。


でもこれらのことを逆に考えれば、悪いことが起きたからといって、嘆き悲しむことはないということになる。〈負〉があれば〈正〉がめぐってくるからだ。
そのために仏教では「施餓鬼供養」という教えがあり、他人への施しは結局は自分のための施しになると説く。(「情けは人のためならず」だね。)これは言わば、〈負〉の先払い制度であり、先手を打って〈引き算〉をしておこう、ということだ。(初詣でお賽銭をするのも、きっとこのことと関係しているだろうね。)


要は人生、“何かを得れば何かを失う。何かを失えば何かを得られる”ということだ。この教え、単純だけど、奥が深い。実にこの通りだと思う。(そして正月、私をずっと悩ませたのが美輪のこの言葉だった。)そう両方は得られないのだ。すべてはムリなのだ。
学校は、会社は、日本は、今あまりにも失うことを恐れすぎているのではないか。また私たちは失われることに戦きすぎているのではないか。
私もたまには〈引き算〉に思いを馳せて、ひとり自らの生活を見つめ直してみようと思う。


道元「禅」の言葉―ゆっくり読む、ゆっくり生きる (知的生きかた文庫)

道元「禅」の言葉―ゆっくり読む、ゆっくり生きる (知的生きかた文庫)

ああ正負の法則

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