逆転可能の世界


のゆりは東北新幹線に乗って新花巻へと向かう。
自炊部があると言う温泉に着いた彼女は、一緒にやって来た真人に「ねえマコちゃん、わたし離婚した方がいいのかな」と聞く。真人は適当なアドバイスを与えることができず(その理由は作品中盤で明らかになる)、いつもあやふやな会話に終始する。


川上弘美『風花』集英社)は、こんな場面からはじまっている。


結婚して7年になるのゆりにはシステムエンジニアの夫・卓哉がいるが、卓哉には同僚の里美という恋人がいる。のゆりはある日、無名の電話でそのことを知らされる。
問い詰めると、卓哉は里美との関係を否定せず、離婚のことまでほのめかした。里美はてきぱきとした女で、卓哉とのゆりが離婚することは望んでいないと言う。しかし別れるにはいくばくかの時間が必要と主張する。
のゆりも卓哉のことは好きで別れたくないと思ってはいるが、どうしてもくよくよしてしまう。卓哉は、もともと寡黙な性格だが、里美とのことを白状した日以来、だんまりを続け、夫婦はますます膠着状態に陥っている。
そこでのゆりは叔父である真人に思い切って相談したというわけだ。しかし真人はただただ傍で見守るだけの存在である。


私は決して川上弘美のよい読者とは言えないが、一度だけ講演会でお姿を拝見したことがある。長身で美しく、とてもやさしい方だった。
お茶の水女子大学の理学部・生物学科で学んだ彼女は、海洋生物の調査のため学生の頃はたびたび房総を訪れていたらしい。そんな話を聞いただけでちょっと親近感がわいて、今でもよく覚えている。
大学を卒業後、作家としてデビューした彼女は、96年に『蛇を踏む』で芥川賞を受賞する。彼女の作品は、この『蛇を踏む』をはじめ、実に奇妙奇天烈な話が多い。
かつて評論家の大塚英志はその点を踏まえ、彼女の作品は説話的な物語を発動させ、主人公を物語に内在する力へ委ねるが、当の主人公はその力に絡めとられたいのか抗いたいのかはっきりせず、結局は全てが機能不全に陥っていくさまを描いていると指摘した。蓋し卓見である。
しかし『風花』は、最初から最後まで静謐な雰囲気が漂い、奇想天外なキャラクターは登場しない。のゆりの悲しみが作品全体を覆っている。


実は今回この本をとりあげたのは、妻から借りて読んだのがきっかけだ。妻はふだんあまり小説を読むタイプではないが、この本だけは「読んでみたい」と言って、買ったのだった。なにかのテレビで紹介されていたらしい。


夫の浮気という問題を川上が妻の視点からどんなふうに描き、解決に導くのか、私はそんな興味をもって読み進めていった。が、読了後はとうてい満足のいく結末ではなかった。こんなことでのゆりは救われるのかと思った。(この最後を妻がどう読んだか、まだ聞いていない。あとで確認してみようと思う。)


しかし繰り返しページをめくっているうちに、だんだんのゆりの最終的な決断がカッコよく思えてきた。
ブログだからどんな結末になるか、具体的には明かさないでおくけれど(想像してみてね)、くよくよしているのゆりよりこのラストののゆりの方がやっぱり素敵だと思う。
私はどうも自分らしく生きている女性に惹かれる。(いや男って、いつもえらそうにしていても、いざとなると臆病で決心がつかないもんなんです。)最後は女の方が決断力・行動力、ともにすぐれていると思う。ピンチを救うのはいつも女性の方で、柳田国男はそれを「妹の力」と名付けて追究しようとした。(これについてはまたいつかどこかでとりあげたい。)
卓哉もどうやら私と同じようで、最後はまぶしそうにのゆりの姿をじっと見つめている。この場面、雨は降っていないけれど、私の頭の中では稲垣潤一の「バチェラーガール」が流れた。


それとは逆に「あなた!! わたしと結婚して!!」と涙ながらに訴え、「はい!!」のひと言で結婚が決まってしまうのが、バカボンのパパとママだ。
ここでも切り出すのは、女であるママの方だ。パパは単に「一緒にいると安心する」という理由だけで結婚してしまう。


中条省平天才バカボン家族論「パパの品格」なんていらいないのだ!』講談社)は、こんな夫婦の馴れ初めを紹介している。
本書は赤塚不二夫の『天才バカボン』を「家族」という視点から哲学的に読み解こうとした本である。企画は大変面白いが、内容は必ずしも成功しているとは言い難い。「あとがき」によれば、筆者は、出版社側のスケジュールで3ヶ月ぐらいで本書を執筆したと言うから、十分に熟考を重ねる時間がなかったのかもしれない。しかしそれにしても全体的に浅薄な解釈が多い。
私の専門だから言うわけではないが、太宰治を引用しているところなどは、あきらかに誤読である。これじゃいくらなんでも太宰がかわいそうだ。(しかし最近の編集者は、こういうの気づかないの?)


まぁ結局、本書は『天才バカボン』の世界に完全に飲み込まれてしまっている、ということである。それだけバカボンのパパが偉大すぎるということだろう。
その偉大さはどこにあるかと言うと、パパが人間なんてもともと多面的で矛盾を抱えた存在だと認めてしまっているところである。こういう見方を(太宰と同時代の)坂口安吾は「ファルス」と読んで、文学的なジャンル(方法)として呈示した。(中条も太宰より安吾を援用すべきだったんじゃないかな? 安吾バカボンの世界観はすごくよく似ている。)
天才バカボン』は、バカが優秀で、優秀がバカという倒錯した世界をひたすらに描く。そしてバカボンのパパは「これでいいのだ」を連発し、それをありのまますべて肯定する。彼はいわばなんでも入る「空虚な器」として存在し、あらゆる思想や道徳や価値観をごちゃまぜに丸呑みし、世界が逆転可能であることを呈示する。


そうなのだ。世の中にこれが正しい、なんていう基準はない。
しかしそうは言っても、人間は弱いから何かしら絶対的な基準を追求し、それに自らをあてはめようとする。
安吾はそうした基準から「堕ちよ」と言った。常識にとらわれるなと言った。むしろ堕ちた地点から世の中を見上げろと言った。


世界は常に逆転可能であるということを私たちは忘れるべきではないだろう。バカボンのパパはそれを笑いの中で体現し、のゆりは悲しみぬくことでかろうじてそうした思いにたどり着いた。


逆転可能の世界、そうした関係性こそ本当の意味で健全なのだと思う。


風花

風花