誰か僕と話してくれない?


面白い本が出ている。田山花袋少女病(青山出版社)。発行は2008年11月だが、原作は1907年5月、雑誌『太陽』に発表された。明治の後半、100年前の小説だ。


主人公は杉田古城。文学者で、若い頃には相応に名も出て2、3の作品はずいぶん喝采された。しかし37歳となった今日では、ほとんど顧みられることなく、雑誌社の社員となって校正などをして日々を送っている。


彼には若い女に憧れるという悪い(?)癖がある。「少女病」なのだ。
もちろん女房も子供もある身だが、それがなんとなく悲しく、なんとなく嬉しいという実感しか持てず、彼は停留場で毎朝すれ違う女学生などに妄想をふくらませるのだった。
羽織を着た女に出会った時は、わざわざ回り道をしてその女の家をつきとめたぐらいである。(今なら立派なストーカーですね!)
またある時は女学生が落とした留針(ピン)を拾い、小躍りしたい気持ちをおさえながら「もし、もし、もし」と声をかけた。「あら、私、嫌よ、留針を落としてよ」、「どうもありがとう……」と娘は恥ずかしそうに顔を赤くしたが、男はこれであの娘、己の顔を見覚えたナ……とほくそ笑む。(やっぱり、ちょっと変態ですね!)


男は午後3時過ぎ、退社時刻が近づくと、妻を思い、平和な家庭を思う。そこに幾許か安堵の気持ちを感じないではないが、一方でつまらんな、年をとってしまったなとつくづく慨嘆したりもする。
そんな彼にとって、だから少女は夢のような生活へ飛翔する想像の翼なのだ。もっともそれは決して実現されることはない。(しかし当時は37歳で年をとってしまった、なんですねぇ。)
今ならロリコン? 制服フェチ? 本作品は、かなりヤバイ匂いのする小説っていう感じもするけれど、これ100年前に書かれているんだから驚きだ。(田山花袋って、すごいのかすごくないのか。侮れない作家だなぁ。だいたい「蒲団」からしてヤバイものねぇ。)


本書はおおむね見開き2ページに本文、次の見開きに写真、と文と写真が交互に出てくるよう編集されている。
写真は藤巻徹也が撮っているが、これがまたなんともエロティック! こうした本を企画した出版社に脱帽だ。
文学ファンのなかには「こんなの邪道だ」と眉をつり上げる人もあるかもしれないが、いやいやこれで100年前の小説が甦ったのだから有り難い。こんな本が出なければ、「少女病」なんて読む人はごくごく少数だろう。
読書のきっかけは、邪道であろうが正道であろうが、なんでもいいというのが私の考えだ。大切なのは、むしろそうした小さなきっかけを逃さず、ちゃんと掴まえることだ。


ところで美少女萌えの古城は、最後どうなったか? うーん、これはぜひ自分で読んで確かめてみてほしい。(ヒント:人生なんてあっけない幕切れなんですね。)


川辺秀美『カリスマ編集者の「読む技術」』洋泉社新書)によると、『少女病』のような本は、「娯楽」というジャンルに入ることになる。
本書はタイトルにある通り、「カリスマ編集者」と呼ばれる筆者が、「読む技術」について語った本である。(川辺氏は私とほとんど年齢が変わらないが、「カリスマ」なんですね。前にこのブログでも紹介した水野敬也『ウケる技術』をつくった編集者だから、それも肯ける気がするけど。)


しかし読書がいかなる行為なのかということについては、実はあまり研究が進んでいない。
読書術については、多くの本が出ているが、どれも読書の本質にはたどり着いてない。だいたい読書中の脳がどんな活動をしているのか、科学者にだってわかってやいないのだ。
川辺氏の本書も、残念ながら読書の本質には迫っていない。しかし読書に対する態度には共感を持つところが多かった。「読む技術」も具体的で、実践的だ。これなら十分に役立つだろう。終盤で紹介されている「本屋ツアー」の例も私がふだん行く本屋とかなりかぶっている。


筆者は新入社員たちに月10冊、2年間で300冊を読めと指導しているらしい。質よりもまずは量をこなすことが大事だと言う。この考えも大賛成だ。
ついでながら言っておくと、今の学生たちは、とにかく量をこなして自分を鍛えようとする強い意志が決定的に不足している。いつも最少で最短のコースを歩もうとばかりする。それでは質のよいものを見分ける感性を磨くことはできない。若者なら苦しくても闇雲に量をこなすことを心がけたい。質はあとからついてくる。


で、筆者の川辺氏はバランス良く量をこなすために、4つのジャンルを意識して読書することを勧める。「感動」・「生命」・「経済」・「娯楽」の4ジャンルだ。
田山花袋の『少女病』は、先に触れたように、私にとって「娯楽」に入る。「感動」には繰り返し読みたい小説などがあてはまるので、『少女病』はそこまでではない。「生命」には理科系の生物学や医学だけではなく、川辺氏は宗教や心理学の本も入れて考えている。これなら多くの人にも読書経験があるだろう。
4つのジャンルのなかで、私がもっとも苦手とするのが「経済」だ。どうにも私はお金とは縁のない生活で、未だ「経済」のきっかけを掴めないでいる。まぁ、いつか何かの本にチャレンジしたい。(死んでも勝間某の本は読まないことに決めているが。彼女のどこがカリスマなの? 日本の経済界って、そんな程度なの?)


川辺氏は、読書をすることで人生を変えてきたと言う。たしかに読書にはそんな力があると思う。
読書には受け皿となる「自分軸」が必要だ。これがないと、溜め込んだ情報は永遠に無駄になる。しかし「自分」にばかりこだわると、読書の幅は広がらない。時には自分の「軸」を動かしてみることも大切。
また筆者は気に入ったフレーズを「写す」、「まねる」ことも重要だと言う。その際、「道具」にもこだわってほしい。万年筆とボールペンでは「書き味」が違う。その時の気分と内容で筆記用具を変えてみる。(パソコンのキーボードを叩くだけでは、「書く」ということに直結しないんですね。)その辺のこと、機会があれば、また別の本で書いてみたいと思っている。(実はこのブログも下書きは、裏紙に手書きしているんです。もっとも万年筆は使っていませんが。)


読み、写し、書くことに慣れてきたら、あとは「伝える」ことを意識する。すると、自然と「自分軸」に「他人軸」が入り込んでくる。何を読んで、誰に伝えるか。筆者は「あなたの大好きな人」を特定した「読み」に変えてみよう、と提案する。
人は誰しも感動を共有したい、と願っているはずだ。「大好きな人」なら、無理なく実践に移せるのではないだろうか。そうテレビや映画、芝居の話を恋人に語るように、本についても語りあいたい。


杉田古城は、作家でありながら、奥さんや子供とそんな話をしたことがなかったんじゃないかな? かわいそうにねぇ。


あ、でもさすがに『少女病』については、彼女に話せないか。


少女病

少女病

カリスマ編集者の「読む技術」 (新書y)

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