アルス・コンビナトリア礼賛

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……

なんのことだか、わかるだろうか。


チェスの棋譜である。
小川洋子の最新作『猫を抱いて象と泳ぐ』文藝春秋)は、八×八の升目の海、チェス盤を舞台とした物語だ。


主人公はリトル・アリョーヒンと呼ばれた少年。
彼の口数が少ないのは、寡黙な祖父に似ただけではなく、生まれたとき上唇と下唇がくっついて生まれ、そのために産声さえ上げることができなかったからでもある。
すぐさま手術がはじまり、赤ん坊だった彼の唇は無理矢理押し広げられ、メスで切れ目が入れられた。そしてむき出しになった肉には、脛の皮膚が移植された。そのため、長じて少年の唇には産毛が生えるようになった。級友たちはそれをからかい、彼をいじめた。彼はますます寡黙で孤独な少年となり、自分の居場所を探し求めた。


この小説には、自らの居場所を失ったかわいそうな被害者がたくさん登場する。
デパートの屋上で飼われていた象のインディラは、体が大きくなりすぎて屋上から降りることができなくなった。それで死ぬまで狭い屋上の一角で鎖につながれて飼育された。
リトル・アリョーヒンは、デパートに来るたびインディラが飼われていた屋上を訪れ、今は亡きインディラと自分を重ね合わせ、そこにかすかな慰めを見出そうとした。


それからミイラと呼ばれた女の子。彼女は家と家の間の壁に入り込んで出られなくなり、そのまま人知れずミイラになってしまった。リトル・アリョーヒンは、毎晩、夜寝るときにこっそり彼女との会話を楽しんだ。姿の見えないミイラは、彼にとって大切な想像上の友人だった。


そしてバス会社の社員寮の管理人をしながら、廃車になったバスの中で暮らすマスター。インディラのように巨体になりすぎたマスターは、その風体のせいか、同僚たちと深い絆で結ばれることはなく、一日のほとんどを一人寂しくバスの中で過ごしていた。
しかし彼はチェスの達人で、あることがきっかけでマスターと知り合ったリトル・アリョーヒンは、マスターからチェスの手ほどきを受け、めきめきとその頭角をあらわしていった。


少年がリトル・アリョーヒンと呼ばれたのは、そのチェスの才能による。彼の腕前は、“盤上の詩人”と呼ばれたロシアのグランドマスター、アレクサンドル・アリョーヒンに匹敵するほどだったが、少年には、難しい局面になると、テーブルチェス盤の下に潜り込んで次の一手を考える癖があった。その姿を見て人々は彼を“盤下の詩人”リトル・アリョーヒンと呼んだのだ。小柄な彼にとっては、“盤下”が唯一の落ち着ける居場所だったのである。
そして実際に彼が指す手は、チェスで描かれる詩そのものだった。少年のチェスは勝敗にこだわる単なるゲームではなく、相手の性格や気持ちを読み取り、コミュニケーションを図りながら織りなされる一篇の芸術であった。


作者の小川洋子は、特異な少年リトル・アリョーヒンを造作しながら、こんなふうに静謐で、それでいて胸躍る物語を見事に紡ぎ出していく。(その後の話がどう展開されていくかは、読者の楽しみにとっておくことにしよう。)
私は本作品を読んでいて、小川洋子が目指している道筋・方法(way)というものが少しわかった気がした。それはひと言で言えば、アルス・コンビナトリアということになる。


アルス・コンビナトリア、組み合わせ術。私は断然、これを楽しみ、礼賛することにしている。一見なんの関係もない複数のものにある関連性を見出し、半ば強引につなぎ止めていく。
リトル・アリョーヒンの唇と脛を結びつけたのが、まず小川洋子のアルス・コンビナトリアだ。そしてそのリトル・アリョーヒンとアレクサンドル・アリョーヒン。またタイトルの『猫を抱いて象と泳ぐ』というのも未読の人にはなんのことかわからないだろうが、「猫」というのは、リトル・アリョーヒンが“盤下”で熟考する時、いつも抱いていたマスターの愛猫ポーンのこと。「ポーン」というのは、チェスの駒の一つで、決して後退しない小さな勇者でもある。さらに「象」とは、チェスの駒「ビショップ」(B)であり、同時に少年にとっては、あのインディラのことでもあった。彼はこの「猫」と「象」とともに、八×八の升目の海を泳ぎ、“盤下”に美しい詩を織りなしていく。冒頭に掲げた暗号のような記号の羅列もその目を持った人が見れば、これはこのうえない極上の芸術作品と映るはずなのだ。
小川洋子は、こうしてチェスというものをモチーフにいくつものアルス・コンビナトリアの物語を紡ぎ出しているのである。


ただしアルス・コンビナトリアと言っても、何も難しく考える必要はない。私たちが普段使っている事典や辞書の類だって、見ようによっては立派なアルス・コンビナトリアだ。
だいたい全く概念の異なる事柄が、アルファベット順やあいうえお順に次々と並べられていくこと自体が奇妙であり、まったくもって可笑しい。(この面白さに気づいている人たちを百科全書派と言う。とにかくありとあらゆるモノを集め、独自の視点で分類していくマニアたち。今の日本で言えば、誰でしょう。荒俣宏とか高山宏とか……松岡正剛も入るかな。わかるよね、このラインナップ!)


それで小川洋子の本を読みながら、ふと思い出したのが飯沢耕太郎『きのこ文学大全』平凡社新書)。飯沢耕太郎は写真評論家として活躍している人だが、本書の著者紹介欄には「きのこ文学研究家」とも書かれている。きのこ文学? ホントかよとも思ったけれど、本書を読めばその肩書きも納得する。とにかく凄い。彼は「きのこ」の図像の切手を集めることからはじめ、ありとあらゆるきのこグッズを集め、分類しているようだ。そのマニアぶりは半端じゃない。
本書は古今東西、文学に描かれた「きのこ」を蒐集し、辞書のようにあいうえお順に並べ、紹介したものである。なんでここまで調べられるの? っていうぐらい、細かいことまで実によく調べ上げている。本当に恐れ入る。「あとがき」によると、もはや著者には「きのこ目」というものが発達しているらしく、この作家は怪しい、この作品はどうも匂うという直感が働き、実際に読んでみると、果たして「きのこ」に出くわすということのようだ。


みなさんはどうだろうか? たとえば日本の作家で「きのこ」を書いていそうな作家って、すぐに思い浮かぶだろうか。(南方熊楠あたりはパッと思いつくと思うが、彼は作家ではないからね。)えっ、宮沢賢治? うーん、いい線いっているけれど、まだまだ。
著者によると、日本の「きのこ文学」の大家は、なんと言っても泉鏡花。それから澁澤龍彦、研究部門では荒俣宏あたり。
なんとなくわかってきただろうか。そう「きのこ」にはまっていくのは、百科全書派の人たちなのである。なぜそうなるのか。このことについては『考えるキノコ 摩訶不思議ワールド』(INAX出版)を紐解いてようやくわかった。(しかし私は一体なにを勉強しているんだろうねぇ。あ、ちなみにこの本自体がむちゃくちゃ面白いので、どこかで手にする機会があったらぜひ読んでみてほしい。写真や図版がいっぱい載っていて、すぐに「きのこ」のグロテスクでエロティックな魅力に取り憑かれてしまうよ。)


それで『考えるキノコ 摩訶不思議ワールド』によると、「きのこ」というのは、実は正体がよくわかっていなくて、知れば知るほど謎が深まる存在らしいのだ。だいたい名前すらわからない「きのこ」が、この世には無数にあると言う。
それでいて「きのこ」たちがいなければ、地球の生態系はあっという間に崩れてしまうのである。人知れず「きのこ」たちは、暗い地下の奥深くで植物や動物の死骸・排泄物などを分解し、土に還元するという重要な役割を担ってくれているのである。(なんて愛すべき奴らだろう! もう抱きしめてやりたくなるよね。でも気をつけなければいけない。うっかり気を許すと、我々は彼らの猛毒で命を落としかねない。その冷たさがまた彼らの魅力でもあるのだが……。)と言うことで、百科全書派の連中が夢中になって「きのこ」を追いかけるのも肯けるだろう。


で、最初はなぜ小川洋子と『きのこ文学大全』が結びつくのか、自分でもよくわからなかったのだが、あらためて本書を眺めていてようやく腑に落ちた。だって〔マッシュルームマン〕の次は〔『万葉集』のきのこ〕、そしてその次が〔三島由紀夫と「野生の」きのこ〕ですよ。なんのつながりもないでしょ? でもこの三つは確実につながっている。これがアルス・コンビナトリア。この組み合わせの面白さ。
そう思い直してみると、ありました、ちゃんと。小川洋子も『薬指の標本』が本書にちゃんと収録されている。(『薬指の標本』には「きのこの標本」が出てくるんですね。だいたい「標本」というタイトルが、もうコレクターの証になっているし。)


うーん、飯沢耕太郎小川洋子、ともに恐るべし。


猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

きのこ文学大全 (平凡社新書)

きのこ文学大全 (平凡社新書)


¶巻末の謝辞によると、小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』は、どうも後ろで若島正がアドヴァイスを与え、操っていたらしい。京都大学大学院教授、ナボコフの研究家、『ロリータ』の訳者として知られる若島は、京大の理学部を出た後、文学部に入りなおしたという異例の研究者で無類のチェスマニアでもある。(彼が裏にひかえているなんて、ちょっとずるいや。)それから飯沢耕太郎の蒐集の凄さは『危ない写真集246』(ステュディオ・パラボリカ)でも窺うことができる。この本も目をそむけたくなる写真満載で、なかなか貴重。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

考えるキノコ 摩訶不思議ワールド (INAX BOOKLET)

考えるキノコ 摩訶不思議ワールド (INAX BOOKLET)

危ない写真集246 (夜想・Baby)

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