歩行とリズム

katakoi20082009-02-22



昨日は渋谷に出掛け、とってもアートフルな一日だった。


渋谷に繰り出す若者たちは、言葉遣いやファッション、ライフスタイル、そしてセクシュアリティに至るまでとても個性的だ。それぞれ存分に“自由”を謳歌しているように見える。(なかには少女姿のオジサンもいたりして、ね。)


それにしても彼・彼女(?)らの、あのダラダラと歩くテンポはなんとかならないものか。
私は東京の街を歩くたび、都会の人の歩行スピードの遅さにイライラしてしまう。歩幅が合わず、前の人の足を踏みそうになったり、よけようとしたら前から来た人とぶつかりそうになったり、どうにも自分のリズムを保てないのだ。


もしかしたら、都会の若者は一見誰もが“自由”に見えるが、その実ものすごく窮屈な日常を強いられているのではないか。“自由”に見えながら、彼・彼女らは相当に“不自由”なんじゃないか。
私はイライラと高ぶる感情を抑え、そんな“歩行思考”をしながら、渋谷のBunkamuraで行われていた「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」展に足を運んだ。


展覧会の規模はそれほど大きくなかったが、良質な作品が多数展示されていた。日本ではお馴染みのシャガールピカソもあらためて見ると、彼らが20世紀の絵画史に果たした功績に感じ入るものがあった。
しかしやはり私のお気に入りは、なんと言ってもパウル・クレーである。ふるえるような線描画、ほんわりとあたたかな色彩。いつ見ても魅了される。クレーの絵にはリズムがある。だからきちっとしたフォルムはないのだが、見ていて心地がいいのだ。


2時間ほど展覧会を満喫した後、夕方からは同じ渋谷の〈公園通りクラシックス〉で行われたオイリュトミー公演パッサカリアを鑑賞した。
ちょっと怪しげな地下の駐車場に潜っていくと、木でできた〈公園通りクラシックス〉の赤い入口が見えてくる。会場は30人も入るといっぱいになってしまうような小さなところだが、熱心なお客さんがたくさん集まっていて、ずいぶん早い時間から席はおおかた埋まっていた。(私はちゃんと予約していたから席がなくなる心配はなかったのだが。)


ルドルフ・シュタイナーに関心を持ってから、一度はぜひオイリュトミーを生で見たいと思っていたのだが、昨日はようやくそれが実現した。今回は定方まこと・寺崎礁・松本志摩の3人のオイリュトミストが演者で、日夏耿之介の「晶光詩篇」、三島由紀夫の『近代能楽集』、多田智満子の『闘技場』などの詩句やB.ブリデン「無伴奏チェロ組曲第1番」、A.スクリャービン24の前奏曲」などの音楽に合わせて舞踏が披露された。


オイリュトミーというのは、シュタイナーによって体系づけられた身体芸術で、シュタイナー学校では体育のかわりに教えられたりもしている。
オイリュトミーには「言葉のオイリュトミー」と「音楽のオイリュトミー」の2つがあって、言葉や音楽に合わせ、くるくると舞ったり、前後左右にステップを踏んで入れ替わったり、あるいは上下に伸び上がり、舞台に寝ころんだり……と実に目まぐるしく、それでいて厳かに動き回るのだが、しかしあれだけ激しく運動しながら、演者たちは一度たりともお互いが接触したり、ぶつかったりすることがない。それはおそらく個々はバラバラに動きながらも、1つの言葉、1つの旋律に合わせてお互いがお互いの動きを捉え、息を合わせながら踊っているからなのだろう。個々のダンスはそれぞれに完結しつつ、それが全体としても調和がとられているのだ。また3人の動作も常時は独立しているのだが、時々それがピタッと一致する一瞬がある。
ダンスについては、私はどうも鈍感で見る目がなく、今回のオイリュトミーも感動を味わうまではいかなかったが、しかし小1時間の公演は、なかなか貴重で不思議な経験となった。


で、話は渋谷の街に戻るのだが、思うに渋谷の街を行く若者たちは、他人に目を向けることもなく、ましてや息を合わせるなんてこともなくて、まさにてんでんばらばらにただただ勝手気儘に振る舞っているだけなんじゃないだろうか。(いやいや、渋谷の若者たちだけでなく、海外で好き勝手やってヘロヘロ記者会見をやった某元大臣も同じだね。)
つまり街全体の調和がとれていないのだ。だから東京では人と人とがぶつかり合い、ぶつかっても知らん顔だ。変に謝ったりしたら、ややこしい人間関係に巻き込まれる。だからぶつかっても何事もなかったかのように素通りしていく。これは決して彼らが悪いわけではなく、おそらく日本全体の通奏低音が失われていること自体が問題なのだ。(だからこれを若者のマナーの問題に還元してはならないのだと思う。それは誤魔化しに等しい。)


私たちが今なすべきなのは、街の雑踏やノイズのなかから皆が歩調を合わせられるリズムを聞き取り、それをハミングでふくらませ、心地よいメロディーに発展させていくことではないだろうか。よくよく耳を澄ますと、今でも小さな街の片隅からはとっても気持ちのいい調べが聞こえてくる。
オイリュトミーの鑑賞後、そんなメロディアスな一角、渋谷のブックカフェ、フライング・ブックスhttp://www.flying-books.com/)に寄った。このお店は、私の好きなヴィジュアル系の古本がセレクトされて販売されているのだが、それだけでなく定期的に詩の朗読会をしたり、さらには若者のバンド活動をサポートしてレーベルを立ち上げ、CDも制作しているようだ。小さな店内にはコーヒーの香りとジャジーな音楽が漂っていた。


現代に生きる人々が同じリズム、同じメロディーを身体に刻めば、きっとオイリュトミーのように息が合い、歩調が合うはずだ。いつかそんな日が日本にも来てほしい。
今回のオイリュトミー公演のタイトル「パッサカリア」とは、古い舞曲の一様式でスペイン語のpassacalleを語源とし、動詞「歩く」(pasear)と名詞「通り」(calle)の合成語であるらしい。(どうりで午前中から渋谷の街を行く人々の歩行が気になったわけだね。)


とそんなことを思っていたら、帰り際の駅前にとっても上手なストリートバンドがライブをやっていて、思わず足を止めてしまった。CATAMARANというらしい。
彼ら、なかなかいい音楽を奏でていた。そのうちメジャーになっていくんじゃないかな。日本の若者も捨てたもんじゃないね。
(興味のある方は、オフィシャルサイトをどうぞ。http://catamaran.syncl.jp/