私の解釈


今年の正月、妻と2人で鎌倉のお寺で写経体験したことは、前にこのブログでも報告した。
それで心のモヤモヤがすぅーっと解消したわけではない(いやいや未熟者ゆえいまださまざまな懊悩を抱えたままだ)けれど、あれ以来なんだかお経というものに親しみを感じるようになった。


そこで今回は、ある必要に迫られて高速スキャンした藪内佐斗司『開運招福般若心経』小学館文庫)を紹介したい。
藪内は東京芸大を卒業した現役の仏師で、明治以降、西洋近代化の過程で日本人が失った東洋的自然観の復権と再構築をテーマとしている。彼のつくる仏像は、そのテーマとは裏腹に(?)どこかユーモラスで諧謔味を帯び、親しみやすい。


本書はそんな藪内が素人にもわかりやすく解説した「般若心経」の入門書である。藪内の作品もたくさん写真掲載されていてヴィジュアル的にも楽しめる本だ。
「般若心経」とは正式には「般若波羅蜜多心経」といい、釈迦が到達した「智慧」(般若)について分析した『大般若経』600巻のダイジェスト版である。
摩訶般若波羅蜜多心経」は、サンスクリット語で「摩訶」=「マーハ」(偉大なる)、「般若」=「パンニャー」(崇高な智慧)、「若波羅蜜多」=「パーラミタ」(到達する)という意味だ。(ちなみに「般若」というと嫉妬に狂った女の怖いお面を思い浮かべる人がいるかもしれないが、あのお面とはまったく関係がない。もっともお面はお面で、なかなか興味深いテーマではあるが。)


「般若心経」というと、最近では写経のイメージが強いが、これはその内容もさることながら、あの262文字という経文がちょうど半紙1枚に収まり、人が精神を集中させるのに最適な分量で昔から精神安定効果があるとされてきたことに由来するらしい。(それなりに科学的な根拠があったわけだね。)
私の経験から言うと、確かに書写しているうちにだんだん雑念が取り払われ、「書く」という行為自体に意識が集中し、その間だけだけれど、不安な気持ちや孤独な感情から解放されていたように思う。


では肝心の中身、内容はどうなのかと言うと、これが意外や意外、きちんとした解釈が定まっていないようなのだ。
本書は、それをユニークに「浪花がたり」にして関西弁で意訳し、弟子の舎利佛(佛は人偏なし)が幻想の観音さまから「空」観について啓示を受けるという構成を採っている。この時空を超えた舞台設定は、「能」を思わせ、「般若心経」をひとつの宗教的戯曲にまで高めている。まことにあっぱれな仕儀だ。


「般若心経」で一番大切な教えは、今も少し出てきたけれど、「空」観ということに尽きる。このことを本書では、次のように説いている。

あのなあ舎利佛はん、大事なこと教えたげるさかい、よう聴きや。
自分のこころもからだも、それから世の中のすべてのもんも現象(あらわれ)も、ほんまはすべて「空」やねん。永遠にあるように思うてても、すべては“むげんの世界”に生まれた一時のあらわれに過ぎまへんねんで。

確かにこんな境地に至ることができれば、個人の抱える悩みなんて雲散霧消するだろう。


それができないのは、私たちはどうしても「自我」というものに執着してしまうためだ。「自我」ではなく「無我」、「無常」――そして融通無碍な「空」の関係性に思いを馳せてみたい。(未熟者の私にはまだまだ到底不可能だろうが。ここらへんについては、近代生理学からも追究できそうだ。いつか機会があったら、「虫虫」してみよう。)


さてもう一書は、ちょっと関連が近すぎるけれど、文・柳澤桂子/画・堀文子『生きて死ぬ智慧小学館)を取り上げておこう。
本書はNHKの放送で大反響になったらしいのだが、私は全然知らなくて、たまたま渋谷の本屋で見つけて買ったまでだ。
こちらも「般若心経」の意訳本なのだが、帯には「心訳」と書かれている。藪内の本に比べて、随分と真面目な印象を受ける。たとえば、先に引用した部分と同じところは、『生きて死ぬ智慧』ではこんな感じになっている。

お聞きなさい
これらの構成要素は
実体をもたないのです
形あるものは形がなく
形のないものは形があるのです
感覚、表象、意志、知識も
すべては実体がないのです


筆者の柳澤桂子は、コロンビア大学大学院の博士課程を出て、帰国後は慶応大学医学部分子生物学の助手となった才媛で、日本を代表する生命科学者にして歌人という人だ。(話が横道にそれるけれど、科学者にして歌人という人は、意外に多いんです。斎藤茂吉石原純、あるいは俳人寺田寅彦など……。宮沢賢治は詩人にして科学者・仏教徒だしね。)
話をもとに戻して、筆者の柳澤氏は、大変お気の毒なことだが、慶応大の助手の後、民間企業の研究員として活躍していた最中、69年に原因不明の病を発病、しばらくは闘病と研究の二重生活を続けていたようだが、病状がしだいに悪化、ついには将来を嘱望されつつ退職に至ったそうだ。


原因不明とされた彼女の難病は、99年になって、ようやく「周期性嘔吐症」と診断された。サイエンスライターとして活躍する今でも、彼女は日々闘病生活を送っていると言う。
発病以来、40年近い闘病の経験を通して捉えられた「般若心経」の解釈は、だから当然、重くて深い。
しかし彼女は「これは私の解釈であって、絶対に正しいというものではありません。みなさんにはみなさんの解釈があるのだと思います」と言う。


そうか、「般若心経」は伝えている教えが「空」であるならば、その解釈も人それぞれ自由でいいんだね。そのための導きとして柳澤解釈があり、藪内解釈があると考えればいいわけだ。そしてたぶん時とともに私の変化にあわせ、その解釈も無限に変わっていくのだろう。
だから「般若心経」は自分を映す鏡でもあるわけだ。自分を鏡に映しながら、そこに映った自分をさらに観察する。永遠に繰り返すであろう、そうした自己言及の果てに人はようやく自他の分別を空じていくことができるのだろう。
人は悩みを完全に消し去ることはできない。ならば悩みをまたひとつの鏡として、とことん自分を見つめ直す以外にない。


「般若心経」に関わるまったく趣の異なる2冊の本を読みながら、そんなことを考えた。これ、私のひとまずのパーラミタだ。(まだまだ先は長いだろうけれど。)


生きて死ぬ智慧

生きて死ぬ智慧


¶『生きて死ぬ智慧』については、なんと言っても堀文子の画に触れておきたい。私が本書を購入したのは、この画に惹かれたからだ。柳澤の「心訳」もいいが、ぜひぜひ堀の画を見ていただきたい。
私のオススメは、前半の方に出てくるクラゲの画。私はなせが子どもの時からクラゲが好きで、漠然とクラゲのように生きたいなぁと思っていた。(我ながらヘンな子だねぇ。)なんでクラゲに惹かれるのか、自分でもその理由がわからなかったが、本書を手にしてようやくそれが少し解けた気がした。(人生、意外なところにヒントがあるもんだ。)
なお仏教の「空」思想については、立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫)が入手しやすいと思う。