歴史の天使

katakoi20082009-04-21



先週の金曜は多木浩二氏の講演を聴きに行くため、仕事を早々に切り上げ、渋谷・神宮前にあるワタリウム美術館に足を運んだ。
現在、この美術館では「歴史の天使 アイ・ラブ・アート10写真展」が行われていて、今回はその記念講演ということで、多木氏がゲストに招かれたようだ。(私は一度多木氏に会ってみたかったんです。)
展覧会の方は、残念ながら時間がなくてほとんど見ることができなかったが、チラッと見たところでは、やはりマン・レイの写真にググッと来るものがあった。


今回の講演は、そのものズバリ「歴史の天使」と題されたものだった。
よく知られているように、パウル・クレーに「新しい天使」(アンゲルス・ノーヴス)という小さな絵がある。
多木氏によると、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、この絵を一目見るなり気に入って、すぐに購入を決めたそうだ。そうしてあの有名な「歴史の概念について」という断章が執筆・発表されることになる。


ベンヤミンは、クレーの「天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える」と言う。
たしかに言われてみれば、クレーの天使は翼を広げ、本当にバックしているかのように見えるのだ。
私は大学生の頃、このベンヤミンのクレー分析を読んで「あぁ、やられた」と思った。多木氏も今回の講演では、ベンヤミンの絵画に対する感受性・直感力の鋭さを何度も何度も強調していた。(そうだよな。思想家たるもの、そのぐらいの感応力がなくて、いったい何が思想だろう。)


さらにベンヤミンは、クレーの天使を指して「歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない」述べ、その大きく見開かれた眼は、世界の「破局」(カタストローフ)を見詰めていると言う。(ここんとこ、やっぱり凄い発想だねぇ。)
多木氏は、そうしたベンヤミンの考えを紹介しながら、クレーの「新しい天使」は驚愕の表情を浮かべているのではないかと指摘する。その指摘はどうも自らの原爆体験に重なっているようで、彼は「歴史が大きく変わる瞬間に立ち会った人間は、きっとこんな表情を浮かべるに違いない。数キロ離れた場所で、原爆を目撃した自分もたぶんこんな表情をしていただろう」と告白した。(ご本人はあまり自分について語りたくないようだったが。)


私自身はクレーの天使を見ていると、自分が見ているその絵から逆に見詰められているような感覚に襲われる。
そして自分がそのまま置き去りにされ、私たちが立脚している「今」が、どんどんと「過去」になっていくような不安感、寂寥感みたいなものを感じる。
こうした感覚が果たして正しいのか、間違っているのか、自分でもよくわからないが、どうにもそう感じてしまうのだ。(ここんとこ、多木氏に質問すればよかったかな?)


多木氏は「天使」というものについて、「神でも人でもない「天使」という概念は、日本人には今ひとつつかみにくいが」と前置きした上で「実在するもの」と「実在しないもの」の中間にあるものが「芸術」であり、「天使」はその象徴的な存在なのだと言う。
日本人はもともと「間」という発想に敏感だから、うん、これなら日本人でも少しは理解できるだろう。(そうした意味で多木氏の説明は絶妙であったと思う。やっぱ一流の人は違うもんだねぇ。)


それにしても私が驚いたのは、齢80を過ぎ、2時間半の講演をこなす多木氏の体力と知力だ。普通はこうは行かないだろう。
聴衆は、行ったり来たりする循環話法的な多木氏の語りにだいぶ眠気を誘われていたようだが、私はあれはあれでなかなか味があったように思う。
またベンヤミンの一節を朗読しながら、まるで自分の書斎にいるかのように独りごち、自らの世界に入っていく様はとっても貴重だった。(著書を読んでいるだけでは、ああいう雰囲気はなかなか想像できないからね。ああやって自らの思想を深めていくのかな? やっぱりご本人に会うのが一番だね。)


私は今回、多木氏の講演を聴きながら、あらためてヨーロッパ思想を学び直したい、もっと復習しなきゃと思った。それは単に多木氏の奮闘に刺激されてということではなく(むろんそれもあるけれど)、それよりも「近代」(モデルネ)をひとつのモデルとして「現代」という時代を捉えなおすべきだと強く感じたからだ。
それは、もしかしたら、あまりにも「今」がクレーの天使の、あの大きな眼にさらされている時代だからかもしれない。


ベンヤミンは言っている。「私たちが進歩と呼んでいるもの」、それこそが「嵐」なのだ、と。
私たちは「進歩」というものを今一度考え直すべき時を迎えているのではないだろうか。


ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)