手塚治虫を語る

katakoi20082009-04-28



先週の土曜は、現在、江戸東京博物館で行われている手塚治虫展 未来へのメッセージ」へ出掛けた。日本漫画界のパイオニア手塚治虫の生誕80周年を記念する特別展である。


私は手塚漫画のよき読者ではないが、それでも「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」、「ふしぎなメルモ」など、多くの手塚アニメを見て育った世代である。


今回の展覧会では、入口近くに手塚治虫が小学校3年の時に描いたという漫画「ピンピン生チャン」の直筆ノートが展示されている。(これは一見に値する。)
私は最初にこれを見て「あ、これは天才だな」と直感した。小学校3年生にして、すでに手塚漫画なのだ。キャラクターもストーリーも絵のタッチも、なにからなにまでもう手塚治虫なのだ。


そして中学時代に描いたという昆虫標本の写生で私は度肝を抜かれた。まるで図鑑のような精密さ! 生き生きとした描写力! 
手塚少年は運動が苦手だったようだが、そのかわりに昆虫の世界に大いに魅せられ、いつも虫取り網をもって走り回っていたらしい。私は彼の観察力と蒐集癖に南方熊楠に通じるものを感じた。(やっぱり天才って、子どもの時から似たような傾向を示すんだねぇ。ちなみに「治虫」というペンネームは、オサムシという昆虫の名に由来するらしい。本名は「治」だ。これはもう「虫虫日記」で取り上げないわけにはいかないね。)


今回の展覧会を見てよくわかったのだけれど、手塚漫画のテーマは一貫して「生と死」だったと思う。
それは先に紹介した、彼の最初の漫画「ピンピン生チャン」というタイトルにすでに表れているし、また彼の作品に「ふしぎなメルモ」や「リボンの騎士」など、子ども向けながら意外に「性」を扱った漫画が多いことでも察しがつく。(「性」は「生」から派生するテーマの一つである。私は子どもながらテレビでメルモの変身シーンを見てちょっとドギマギしたものだ。)
さらには手塚が人造人間・アトムを生み出すのも「生」に関わっていると言えるだろうし、また彼が生涯「悪」というものにこだわり続けたのも「人生いかに生きるべきか」という問題と無縁ではあるまい。


展覧会を出たところで流れていたDVD映像のインタヴューで、手塚は「自分は子どもの頃から虫とか動物とか、生きているモノ、動くモノにとにかく不思議なエロティシズムを感じていた」とこたえていた。
おそらくはそうした原点的な感覚が彼を昆虫博士にし、医学博士にし、漫画家・手塚治虫にしたのだろう。(手塚は大阪大学医学部を卒業したれっきとしたお医者さんで、すでに漫画家として十二分に活躍していた33歳の年に「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により奈良県立医科大学から医学博士の学位もとっている。ちなみに手塚の曾祖父にあたる手塚良庵も医者だった。)


そんな手塚治虫が最後に行き着いて、生涯のテーマ、ライフ・ワークとしたのが、宗教の問題だった。それが輪廻転生をテーマとする「火の鳥」へとつながっていく。
実は今回、この展覧会に出掛けたのは、展覧会にあわせて開催された東京文化発信プロジェクト手塚治虫アカデミー」の第3回シンポジウム「永遠の火の鳥」を聴講するためだった。(参加希望の応募が殺到したなか、私は見事抽選に当たって聴講することが叶ったのだ。)
ナビゲーターは手塚治虫の息子でもあるヴィジュアリスト手塚眞氏。(自慢じゃないけど、私は眞さんとはあるシンポジウムでお会いする機会があって、新潟の居酒屋で胡座をかいて一緒に酒を飲んだことがあるんです! 向こうはもう覚えていないと思うけど。)
今回のパネラーは、松岡正剛岡野玲子夢枕獏夏目房之介という錚々たるメンバーだった。(ちなみに、言わなくても知っていると思うけれど、岡野玲子さんは手塚眞氏の奥さん、夏目房之介さんは漱石のお孫さんですね。今回は「ちなみに」が多いなぁ。)


シンポジウムで印象に残ったのは、やはり松岡正剛の切り口だった。今回のシンポジウムでは、常に彼が最初に口火を切って談話を先導していたように思う。
松岡正剛氏は、手塚治虫は「文豪」ならぬ「漫豪」だと言う。文豪が国民文学と呼ばれるような作品を残したように、漫画家が漫豪になるためには普遍性を持った作品を世に問うたか、ということが条件になる。
作品が普遍性を持つためには、キャラクターの創造とテーマが重要になる。手塚が創り出したキャラクターは、アトムをはじめ、どれもが申し分ない出来映えだし、テーマについては先に述べたように、医学、宗教学、文学、哲学にまで通底する普遍性を獲得している。「生とは何か?」「人は何のために生きるのか?」といった問題提起は、人類の永遠のテーマとも言える。


松岡氏は、そうした世界や人類のルーツ、始原を探ろうとするとき、それらは“もどき”でしか語れないということを手塚は知悉していたとも言う。“もどき”とは、ボードリヤールが言うところの“シュミラークル”に近い概念だろう。
手塚は、そのことを「火の鳥」では古代から未来へ、未来から古代へ幾度もタイムトラベルしながら、“方法日本”として呈示していった。彼は自らの永遠のテーマを“日本”というアーキタイプを通じて追究し、漫画というプロトタイプを駆使して表現していったのだ。


ところが松岡氏は、現代はあまりにもフラット化しすぎているために手塚治虫について誰も語る準備ができていないと言う。私たちは手塚治虫について語るにはあまりにも低い次元にいすぎているのではないか。(クサナギ君を責めるのはいいけれど、あれってそんな大した事件なの? いやいや私たちにはもっともっと大事な問題、議論すべき課題、見て見ぬふりしている咎があるんじゃないの? 全てはそういうことだ。)


本当に今の日本は、進歩どころではなく、どんどんと後退していると思う。
岡野玲子夢枕獏のお二人は、そんな感覚を共有してか、実作者として手塚の“スピリチャル”なモチーフに関心を寄せる。特に岡野氏は、そうしたきっかけを手塚治虫の死に直面することで与えられたと告白する。(彼女がこんな告白をするのは、本当に珍しい。いや、もしかしたら初めてのことではないかと思う。彼女の最新作は『イナンナ』という作品で、ベリーダンスを題材にしたもの。これなども私は妙な縁を感じてしまった。と言うのも、うちの奥さんが、つい先日車を買って「ベリーダンスを習いたい」と言っていたからだ。最近、私のまわりではこういうことがしょっちゅう起きる。)


また夢枕氏は、手塚治虫の「西遊記」が自分の小説の原型になっていると言う。
あ、そうそう、夢枕氏は途中で「歴史小説を書く際に自分はいろいろと調査したり、現地に行ったりして相当に時間がかかってしまうのだが、手塚治虫はあれだけの連載を抱えていて忙しい身でありながら、いったいどうやって調べ物をしていたのだろう」という質問をして、手塚眞氏がその疑問にこたえる場面がとても印象深かった。
基本的には手塚治虫は本からさまざまな知識や情報を得ていたらしいが、手塚眞氏が子どもの頃の目撃をもとに教えてくれたのは、なんと手塚治虫は厚さ2センチぐらいの単行本ならわずか3分ぐらいで読破したと言うのだ。(ね、やっぱり天才でしょ。)


個々のお話しや手塚治虫のエピソードは、実に面白く、興味深いことも多かったのだが、今回のシンポジウムでは「火の鳥」の紹介・解説に時間がとられすぎ、パネラーたちの発言する機会が少なくて残念だった。(もっともこれだけのメンバーで2時間半という時間は端から短すぎたとも言えるが……。私としては、もっともっとパネラーたちの議論や考察を聞きたかった。)


最後に夏目房之介氏は「大衆文化は混淆からはじまる。漫画はその混淆から生み出されたメディアである。今は“物”と“事”を細分化してみる文化が優勢になってしまっているが、私たちはもう一度、“物”と“事”を同時に見る目を取り戻すべきだ」というような発言をしていて、なんだか偶然にも最初の松岡正剛氏の発言とつながって、あたかも円環をなすようにシンポジウムの幕が下ろされた。
私も夏目氏の提言には大いに賛同を示しておきたい。


と言っても、先に告白したように、私は手塚治虫については、まだまだ勉強不足だから、これを機に手塚漫画をきちんと読んでみようと思う。


¶展覧会のショップでは、図録とポストカード、アトムの携帯ストラップ、書籍『ぜんぶ手塚治虫!』(朝日文庫)などを購入した。『ぜんぶ手塚治虫!』をチラッと読んでビックリしたのだが、手塚治虫も私と同様(?)小川未明童話の愛読者だったらしい。
小川未明についても、もう一度研究を再開したいと思っている。