原点としての小さな場


ある女性が、私が教師であることを知って『留学生日記 イギリス式高校生活』文芸春秋)という本をくれた。
著者は1988年生まれの池内莉佳子さん。実は私にこの本をプレゼントしてくれた方のお嬢さんだ。現在はロンドン大学に通っているとのことだった。
私はついうっかりして、本書がどのような経緯で出版されるに至ったのか聞きそびれてしまったのだが、内容はタイトルにある通り莉佳子さんがイギリスの高校に留学した時の体験記である。


恥ずかしながら、私は海外の学校制度についてはほとんど何も知らない。が、本書を読むと日本とイギリスの学校の違いに少なからず唖然とさせられる。
莉佳子さんは当然ながら、留学するまでは日本の中学校に通っていた。私立の女子校である。彼女は入学してまもなく、最初のチャペルの礼拝の時間に上級生がおしゃべりをして笑いながら入ってきたことに大きなショックを受けたと言う。しかし気がついたら、自分も中学3年になって同じように私語をしながら列なんて関係なしに歩いてチャペルに入っていた。本文には「環境って、怖いな」と正直に書かれている。


当時文科省が推し進めていた「ゆとり教育」に不安を感じていた莉佳子さんは、2年のある時、父親に「学校が楽しくない」と漏らした。すると、父親は何の脈絡もなく「留学でもするか?」と答えたそうだ。これが莉佳子さんが「留学」を意識するきっかけとなった。どうも父親にも「もう日本はだめだ」という思いがあって、父娘の気持ちが重なったらしい。
教師である自分が言うのもおかしいけれど、実は私も現在の日本の教育はかなり危ういと思っている。だいたいいま日本の教師たちは仕事が多すぎて疲弊しきっている。これでは部活どころではないし、ましてや研究どころではない。いやいや、そのうち冗談でなく授業どころではない(!?)ということになる。いったい何のために私たちは忙しく働いているのか。実際のところは毎日毎日、会議のために学校に来ているようなものだ。


莉佳子さんはイギリスの学校に通ってみて一番最初に感じた違いは、勉強に対する姿勢だと言う。イギリスでは宿題を忘れるなんて絶対にありえないし、授業中の居眠りだってまったくないそうだ。授業についていけない生徒がいれば、先生が声をかけてくれる。
いま日本では一人一人をサポートする余裕はない。たぶんイギリスでは教員一人が受け持つ生徒の数が少ないのだろうし、仕事の分担もきっちりしているのだろう。(私が務めている学校は、授業も研究も部活も寮の仕事も事務的雑用まで全てをこなさなければならない。当然こなしきれない教員が出てくるが、そうなれば、そのしわ寄せは若手に押し寄せてくる。給料は安いし、ホントにやってられんよ……。私は時々、コンビニのバイトでもしていた方が好きな研究をする時間がとれるなぁと真剣に思ってしまうことがある。どうやら日本はいつのまにか教員や研究者、技術者や職人といったクリエイター階層を大事にしない社会になってしまったらしい。これでは決して明るい未来はやってこないだろう。サービスと消費が永遠に繰り返される社会では、何も生み出されない。)


莉佳子さんによると、イギリスでは生徒同士で教えあう授業があり、またPS(プライベート・スタディー)と言って宿題などをする自習時間を生徒自らが設定することもできるそうだ。このようにイギリスでは、生徒が自身で学ぶ体制がきちんと整っているのである。それもそのはずで、イギリスの中学・高校では学年末に業者による全国統一テストがあって、その結果で高校や大学への進学が決まっていくというのだ。
生徒が点数ばかりを気にするのはどうかとも思うが、しかしテストの点はあくまで基礎点であって、スポーツやボランティア、生徒会等で活躍した生徒にはさらに「プラス点」がつく場合もあるそうだ。このプラス点がつくと同じ成績の生徒がいた場合には当然有利になる。(もっともテスト自体も本人が納得しなければ、何回か受けなおすチャンスもあるみたいだし、だいたいイギリスの生徒たちは東大なら、どの学部でもいいなんていうブランド受験をしないそうだ。分子生物学を勉強するなら、○○大学の研究室が成果を上げているとか、△△教授の研究がユニークだとか、そんな情報をもとに進学先を決定していくらしい。要はイギリスは日本よりも大人で成熟した社会なんだね。これじゃ、約100年前の漱石がカルチャー・ショックを受けるのも肯ける。それにしても日本は未だ足もとにも及んでいないんだねぇ。私は日本の教員の忙しさを解消するには、教育システム全体の見直しをするしかないと思っているのだが、残念ながら、文科省をはじめ今の日本は首脳陣が無能すぎてまったく埒があかない。高い給料もらってるんだから、ちゃんと仕事しろよな、ったく!)


莉佳子さんが通う学校には、学寮もあり、そこでの生活もなかなか楽しそうだ。世界中からいろんな留学生が集まっているから、今月はロシアン・ナイト、来月はジャパン・デーなど、それぞれの国の文化を披露するイベントもしばしば企画される。
莉佳子さんはカメラが趣味のようで、本書にはたくさんの写真が掲載されているが、それを見るだけでも学校や学寮の雰囲気がよく伝わってくる。生徒たちの表情が実に生き生きとしていて、いかにも青春を謳歌しているという感じだ。(いまの日本の若者じゃヤラセでもこんな顔はできないだろうな。)


ところで私にはおかしなクセがある。それは時々無性に理系の本を読みたくなることだ。と言っても、文系バリバリの私には理系の本格的な専門書はとても読みこなせないから、必然的に入門書を繙くことになる。
そんな折り、千葉のある本屋で竹内薫『ねこ耳少女の量子論 萌える最新物理学』PHP)という本を見つけた。うーん、タイトルからしてかなりあやしい……。
前回のブログでは手塚治虫のことを書いたけど、いま日本ではこの手のちょっとエッチな漫画を駆使した学参が結構出回っている。(莉佳子さんの話ではイギリスでも日本の漫画は売っているらしいが、割高でお小遣い的にも厳しいから友達と共同購入しているそうだ。回し読みすれば、その分お金がかからなくてすむ。)
それにしても、ねこ耳少女の萌え系漫画を最新物理学と“アルス・コンビナトリア”してしまうのは、やはり現代日本ならではだろう。


2008年度のノーベル物理学賞は、南部・小林・益川のトリプル受賞となったが、この3人の専門が最新物理学、素粒子論だ。
物質を分解していくと、分子になり、原子になり、最終的には素粒子になる。その素粒子にはアップダウンチャームストレンジトップボトムの6種類のクォーク電子電子ニュートリノミューミュー・ニュートリノタウタウ・ニュートリノの6種類の電子の仲間があって、合計で12種類の素粒子が存在する。(ちなみに「クォーク」というのは、文豪ジェームズ・ジョイスの作品に出てくる鳥の鳴き声からとられ、トップ/ボトムというのは、女性のビキニの上下だという説があるらしい。ゴスロリのねこ耳あいりちゃんとまんざらかけ離れていないところが面白いね。小林・益川理論は、その「クォーク」が6種類あることを1973年に予言し、いまではそれが正しいと証明されている。だからノーベル賞をもらえたわけだ。ついでながらニュートリノの観測では、小柴昌俊さんが2002年度のノーベル物理学賞を受賞しているね。)
さらに素粒子には、素粒子どうしを糊付けしたりする光子グルーオンウィークボソン重力子の力を伝える4種類が存在する。素粒子物理学者は、この12個+4個の素粒子がどんなふうに衝突したり壊れたりするのかをファインマン図という絵のような数式を使って研究する。
またこのほかにも素粒子には「重さ」を与えるヒッグス粒子が存在すると考えられており、南部さんはそのヒッグス粒子が重力をつくりだす複雑なメカニズムも提案している。(このことは近い将来、やはりきちんと証明されるだろうと言われている。)


実は小さな世界を操る量子論は、歴史をさかのぼれば、湯川秀樹朝永振一郎など、日本の「お家芸」の一つであった。その成果はエレクトロニクスに応用され、日本の産業を支えてもきた。
しかしいまや日本では、科学の人気が凋落していると聞く。これはやっぱり教育の問題として考えるべき事態だろう。
本書の著者も書いているが、「何か面白そうだ」という期待感が、若者をアカデミックな世界へと誘っていくのだ。いまの日本の教育は、その期待感を生徒たちに抱かせる手だてを失っている。どうしたらそこをうまく導き出せるか。莉佳子さんのような留学生から海外の教育事情を聞き出すのもいいだろうし、時には竹内氏のように漫画の力を借りるのも一興だろう。
日本の教育界はまずはおかたい役人的根性を払拭すべきだ。そしてもっと柔軟に教育現場を見守る矜恃を示すべきだ。立場の低い者を締め付けよう、締め付けようとする態度は、古今東西、権力者が露呈する自信のなさの表れだ。


なんだか今回は日本の教育に関して随分と愚痴っぽいことを綴ってしまい(あ、いつもか)、本書の内容にはほとんど触れられなかったが、ストーリー的にはよくあるボーイ・ミーツ・ガールというか、学園ラブコメディというか、まぁそんな内容で主人公のユウキが不思議系少女あいりちゃんから量子論の手解きを受けるという話だ。
そのごく初歩的な学説については、先に紹介したが、私が注目したいのは、若者の科学離れが叫ばれていても、それでもやっぱり本書が学校という場を舞台に物語を展開していることだ。


私は日本の教育は根本的に立て直されるべきだと思っているが、自分にそんな改革ができるとは思っていないし、だいたい自分はそんな立場にもいない。そもそも教師に向いているさえ思っていない。ただなりゆき上、教師として働いているだけで、いつやめても構わないと思っている。「じゃ早くやめろよ!」という声が聞こえてきそうだが、それでも私は結局、教室という空間が好きなのである。それは美術館が好き、図書館が好き、劇場が好きなのと同じように好きなのだ。
学校ではどんな出会いが待ち受けているかわからないし、また教室ではどんな物語が綴られていくのか予測がつかない。言いかえれば、そこは生徒一人一人が主役の劇空間なのである。したがって本当は学校ほど期待感が高まる場はないはずなのだ。私たちはそのことをとうに忘れてしまっている。
私が願うのは、だからいま一度その原点、教室という場に帰りたいということだけなのである。


留学生日記―イギリス式高校生活

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ねこ耳少女の量子論~萌える最新物理学~

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