秘密の通路

katakoi20082009-06-30



先々週の金曜19日は、仕事を早々に切り上げ、東京・日本青年館ホテルで行われた松岡正剛氏の講演「時空の方舟―白川静の漢字世界観」を聴きに出掛けた。


本講演は前にこのブログでも書いた、ワタリウム美術館の「歴史の天使」展の関連企画で4つ目のシリーズ講演にあたる。(2つ目が多木浩二の講演だった。)
と言っても、今回は「歴史の天使」に関連したものではなく、サブタイトルにあるように白川静の漢字研究を追跡する内容だった。(たぶんワタリさんの要望で、平凡社新書の『白川静』をふまえたお話を……ということだったのだろう。)


白川静については、これまでいくぶんかは親しんできたつもりだったが、わたしは今回の松岡氏の講演を聴いて、自分は白川静のことをまったくわかっていなかったんだと思い知らされた。
はたして白川静とはいったい何者か。昔かたぎの気骨のある漢字学者? うーむ、そうかもしれないけれど、それはあくまで彼の一面にすぎない。白川静は決して単なる学者なんかではなかった。わたしはそこを完全に見誤っていた。


松岡氏は白川静の漢字研究はアートに触知していると言う。(それをいちはやく見抜いたのは、さすがにヴィジュアル・アーティストのナムジュン・パイクだった。)
白川は古代の甲骨文字を何万枚もトレースしていく過程で漢字の線に動きを与え、そこに意味を辿り、その成り立ちを究明した。その神業的行為は、線という物質に魂を吹き込む秘儀アニマにほかならず、その意味で彼は錬金術的アニメーション作家なのである。


白川は漢字は神と人を媒介するメディアであると結論づけたが、白川自身がそれを感じとる巫女的存在、メディウムであった。
だから松岡氏は講演のなかでしきりに「白川静についてはうまく語れない」と漏らした。白川静が行った研究、彼が残した書物――それらは後からどうとでも整理し、紹介することができようが、しかしそれをしたところであまり意味はない。先にも触れたように、彼が夢想していた世界はそれ以上に大きく、その方法は神懸かり的であったからだ。
よって白川静については、彼の魂とともに語るしかないのだが、それを行うためには自らもメディウムと化すしかあるまい。はたして何人がその偉業を成し遂げ得るか。


白川の胸底には、修行僧のようにして培った世界のエディティング・モデルが宿っている。彼はそこから漢字の成り立ちや一首の和歌解釈という〈部分〉へ向かう。この場合、〈部分〉とは、ミニアチュールの世界にほかならない。そうして白川はまた彼が住処とする大きな世界へ舞い戻っていく。
「手つき」と言ったほうがよさそうな白川静の方法は、したがって見方を変えれば、作っては壊し、壊しては作るリバース・エンジニアリングそのものである。その精神は出たり入ったり、あの世とこの世を行ったり来たりして、世界の部品を交換しつつ、神との交感を果たしている。


こうした方法を体現していた白川だからこそ、その思想は極めてラディカルで、その研究成果はいつも通説を覆す。フラット化する今日の浮薄な時流において、だから彼のラディカルな思想は、極めて重要だ。
つい最近も脳死をめぐる議論がニュースになっていたが、白川の漢字研究では、実は生も死もそんなにかけ離れた概念ではない。古代社会では、最初にできた子どもは神に捧げるために捨てられたと言う。生まれたばかりの赤ん坊を逆さ吊りにして捨てる姿が「棄」という漢字の起源であるらしい。


大正期、日本では童謡運動なるものがおこって、北原白秋や野口雨情など、さまざまな文学者が童謡の詞を書いたが、そのどれもがどこか寂しく悲しい歌だった。なぜ子どもの歌なのにこんなにも悲しく切ないのか。それを解く鍵は、白川の言う「棄」の成り立ちにある。
わたしたちは「棄」てられてはじめて「自分」というものを知り、あるがままの「自分」を受け入れる。(そのもっともわかりやすい例が、失恋だ。あ、そう言えば、まど・みちおは、家族に「棄」てられるという経験をしていたね。)


白川は漢字を「呪能」と捉えていたが、そこにはいくつもの「負」の要素が入り込んでいる。(言葉って、時に人を深く傷つけるけれど、そもそも漢字が恐ろしいものなんだね。先にも書いたけれど、白川はその霊的な「負」の世界を敏感に察知した人なんだと思う。)
かつてエリアーデは、二分法(ダイコトミー)に抗し、「反対の一致」という言葉を駆使したが、現代人はあまりにも「正」の世界ばかりを求めすぎた。それを松岡氏は「まつる」という感覚を失っていると表現した。「まつる」とは「祭」であり、「政」であるが、要はセンタリングのことである。(それでいま思い出したが、このことは盆踊りの時、わたしたちが円になって踊ることと関わっているはずだ。)
世界には表が裏で、裏が表のような秘密の通路が隠されている。それが「反対の一致」だ。白川は漢字に「負」の要素を見出すことで、その裏側に通じていった。現代人はその道行きをこそ学ぶべきだろう。


いやいやもっと驚くべきは、白川静の漢字研究は、決して目的ではなく、あくまで手段だったということだ。彼の真の目的は、中国の『詩経』と日本の『万葉集』を同時に読むことであった。この2つの書に繋がりがあるのか、ないのか。それを探るために、白川は文字研究に打ち込んだのだ。(いや〜この世界観はホントにすごい。)


講演の最後で、松岡氏は「狂狷」という言葉を紹介した。これまで通説として信じられていた「聖人」ではなく、白川が新たに孔子像として打ち出した言葉である。『孔子伝』に詳しい。
「狂狷」という言葉は、言うまでもなくそのまま白川静本人に重なるが、わたしにはさらに松岡氏が彼を借りて現代に託したメッセージのように感じられた。


ここのところ仕事が忙しく、今もアップアップしているけれど、久しぶりに松岡正剛氏の話を聴いて少し元気が出た。
心満たされて会場を後にしたら、道路脇に白い綺麗な花が夜間工事のライトに照らされて咲き誇っていた。とってもいい香りを放っていたが、あれ山梔子かな? 
なんだか白川静の夜にふさわしい花に思えた。


白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)